佐世保での体験について語る古川律子さん=鹿児島市
■古川律子さん(83)薩摩川内市入来町浦之名
1941(昭和16)年、宮之城農蚕業学校に入学したが、あこがれのセーラー服は1年だけ。もんぺ姿で竹やりを持ち、わら人形を突く軍事訓練や勤労奉仕に駆り出され、戦争一色の学生生活だった。
44年、学校に女子挺身(ていしん)隊の募集が来た。国へのご奉公が当たり前の時代。「女学生の模範を示す」と意気込んで応募。50~60人いた同級生とともに卒業を早め、3月に入来駅から汽車で長崎県の佐世保海軍工廠(こうしょう)へ向かった。
工廠ではハンマーで鉄板を切る仕事を与えられた。そのときの「ばったん、ばったん」という音は今も忘れられない。負けているとは知らず、勝つためと強い信念を持って働いた。今思えば終戦前で仕事は少なく、重労働でもなく、半分は遊びのようなものだった。
仕事よりつらかったのは空腹。同級生とこじきのように近所へ食べ物を分けてもらいに回った。みんな、あんな思いは初めて。空腹と物ごいの惨めさが、何より“戦時中”を象徴していた。
佐世保では空襲にも何度もあった。爆弾が工廠を直撃したこともある。あんな怖いことはなかったが、震えるだけでは殺される。逃げ道や隠れ場所はよく分かっていた。「ブーン、ブーン」と警報が鳴り始めると、みんな急いで逃げた。
防空壕(ごう)が満員で戸口に体を折り曲げ隠れたことや、防火水槽に飛び込み九死に一生を得たことも。帰省途中、熊本の八代近くで機銃掃射にあった時は、慌てて田んぼに飛び込み難を逃れた。
45年8月9日には、長崎へ原爆が落とされた。激しい音と光を感じたが、当時は普通の爆弾と思っていた。
翌日から、佐世保に被爆者がたくさん避難してきた。同郷の人もいた。背中や袖がない服を着てひどいけがの人から、それほど負傷していない人まで。けがの具合は関係なしに、髪の毛が抜けたり、血を吐いたりして次々と亡くなった。
佐世保は軍事基地で、私たちは女学生ということもあり、保護されていた面もあった。守られていない長崎市民がひどい目にあったことに、戦争の恐ろしさを感じた。
玉音放送は工廠で聞いた。みんな運動場に飛び出し「やめた、やめた」と手をたたいて喜んだ。空襲警報から解放され「やっと家に帰れる」という思いでいっぱいだった。鹿児島への汽車の車内は同年代の娘ばかり。勝った負けたは関係なしに、帰郷の喜びと解放感で大騒ぎだった。
ところが家に戻ると、澄乃姉さん=当時(20)=が病気で亡くなっており、悲しみに突き落とされた。おっちょこちょいの私に対し落ち着いた優しい姉。具合が悪いと知っていたが、終戦間際で連絡がつかなかった。新しい位牌(いはい)を抱いて泣きじゃくった。姉も栄養不足に耐え国に尽くした“戦死者”だ。
どれだけおいしい物、楽しいことも、家族で分けあわなければおいしくも楽しくもない。戦争はそれを引き裂く。世界では今も簡単に戦争を起こしているけど、そんなことをする指導者は頭をはたいてやりたいね。
(2010年9月19日付紙面掲載)