地獄の訓練、あっけない終戦…「一日でも早く故郷に」。島は米軍統治下だ。国はほったらかし、手だては密航船しかなかった。命懸けの帰郷…砂浜に上陸すると、そこには警官が待っていた

2025/01/20 10:00
「人を大切にする教育が大事」と語る富田宏さん=知名町竿津
「人を大切にする教育が大事」と語る富田宏さん=知名町竿津
■富田宏さん(84)知名町竿津

 7人兄弟の三男として沖永良部島に生まれた。1943(昭和18)年、志願兵を希望し検査を受けた。日本軍が各地で戦果を挙げているとの報道から、純粋な軍国青年として教育を受けた自分には「後れを取ってなるものか」との思いがあった。

 44年夏、福島県の郡山海軍航空隊に入隊。「一家一門の名誉、村の名誉」ともてはやされ、港では歓喜の声に送られたが、航空隊の門をくぐるとそこは地獄だった。

 息つく間もない訓練が続き、最後はカシの棒でたたかれる。1発目は体中にしゃく熱が走り、2発目に息が止まる。3発目には体中の力が抜け、倒れた。気絶した者には水が掛けられる。毎日続いた。3カ月の基礎訓練後、飛行整備の電機専修練習生として学科や実習に明け暮れた。45年春、横須賀市に転属。夏に再び郡山へ帰ることになった。

 終戦の報はあっけなくやってきた。沖永良部に一日でも早く帰りたい。親、兄弟が無事であってほしい。情報は何一つ得ることができなかった。

 列車でようやく帰った鹿児島市は、焼け野原で無残な状態だった。民家でお世話になり、その後は、市民や離島出身の“戦争難民”が暮らす宿泊所に行った。そこで島出身者たちが集まり、密航の話が持ち上がった。

 漁船の持ち主と交渉すると、船賃は1人100円。日給1円、兵隊の給料が28円という時代に、かなりの高額だった。それでも、島出身者たちに話すと「一緒に帰りたい」と涙を浮かべ喜んだ。

 密航船だけにまさに命懸けだったが、島に帰りたいとの思いが強かった。国が責任を持って故郷に帰してくれればいいのだが、島は米軍統治下にあり、ほったらかし。怒りが込み上げてきたが、その怒りを帰郷の力とした。

 船は朝5時半ごろ出港し、午後11時ごろ口永良部島(屋久島町)に着いた。翌朝出港し、一夜明けて朝6時ごろ奄美大島に到着。徳之島の亀徳港に着いたのはその翌日午後6時ごろだった。砂浜では巡査が待っていた。幸いにも沖永良部出身の顔見知りだった。巡査は困ったように「皆早く逃げなさい」と言ってくれたのを思い出す。

 5日ほどかけてようやく故郷にたどり着いた。急いで家に向かうと、途中でばったりと父に出会った。突然の帰郷に父は私の手を握って涙ぐんだ。言葉はなかった。持っていた弁当を私に差し出した。父は、喜界島から復員する兄を迎えに来ていた。2人の息子が帰ることになり喜びで言葉が出なかったのだろう。父の姿は今も目に浮かぶ。

 島の戦災はひどかった。知名の役場は空襲で全焼。家は1300戸が焼かれたという。直後の9、10月には2度の台風が襲い、学校が倒壊するなど悲惨そのものだった。皆助け合いながら暮らしたが、敗戦苦の大波は次々とやってきた。住居を調えることと、食べることで頭がいっぱいの生活。つらかった。

 現在の日本は平和という言葉を忘れるほど静かで安定しているが、世界には今も命を脅かされる危険と隣り合わせの人々もいる。子どもたちが最大の犠牲者となっており、平和教育の大切さを痛感する。平和は長年のたゆまざる努力でのみ得られるものということを忘れてはならない。

(2010年10月13日付紙面掲載)

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >