大阪の今宮駅で貨車が空襲を受けた。積み荷の米を取ろうと群がる人たち。途中、丸焦げの遺体を素通りして。みんな生きるので精いっぱいだった【証言 語り継ぐ戦争】

2025/01/20 18:00
小ケ倉さん(中央手前)が出征前の兄・静雄さん(同奥)らと大阪の自宅前で撮った写真
小ケ倉さん(中央手前)が出征前の兄・静雄さん(同奥)らと大阪の自宅前で撮った写真
■小ケ倉靖郎さん(92)鹿児島県薩摩川内市平佐町

 1932(昭和7)年に大阪市西成区で生まれた。両親と9歳離れた兄の4人家族だった。父は現在の薩摩川内市出身。平佐町に父の兄の家があり、近くに父の母が隠居していた。正月や夏休みには何度も訪れ、ごちそうしてもらった。

 45年に大阪で中学校に入学した頃は空襲が多く、警戒警報が鳴ると家の下に掘った5、6人が入る防空壕(ごう)に土間から逃げた。召集令状を受けた兄が出征する日、自宅前で一緒に撮った写真が残っている。後にフィリピンで戦死したと聞いたが、遺骨や遺品はなかった。

 3月になると空襲が激しくなった。家が焼ければ家の防空壕ではだめだと思い、少し離れた広場に避難した。中旬に大きな空襲があり、米爆撃機B29が焼夷(しょうい)弾を次々と落とすと辺りがパーッと光った。街が見渡す限り焼け野原に変わった。

 強く印象に残っていることがある。ある日、今宮駅に止まっていた貨車が空襲で燃え、中の米が焼けてくすぶっているという情報が流れた。食べ物がなかったため、大勢の人が取りに行った。自分も「闇袋」と呼ばれていた1、2升ほどの手提げ袋を持ち、母と向かった。

 その途中、道端で丸焦げになって死んだ人を何人も見た。馬も焼けて、帰りには骨だけになっていた。遺体は放置され、その横を人々が素通りしていた。立ち止まったり、手を合わせたりすることはなく、悲しいという感情もないようだった。みんな自分が生きるので精いっぱいだった。

 4月に大阪から汽車で川内に引っ越した。着の身着のままだったが、大切にしていた江戸期の名工・左甚五郎作の大黒天木像と、足利時代の大きな仏画は持ってきた。

 祖母の家で、6~8畳ほどの部屋に4、5人で生活した。父は宮大工として働き、私は川内中学校に転入した。学校は狙われる恐れがあったため、中郷地区の山の中で授業を受けた。友達と竹の棒を使って机を運んだ。帰りに空襲で校舎が焼けているのを見て、学校にいたら死んでいたかもと思った。

 別の日には、下校中に田んぼのそばを米軍機が低空飛行し、射撃するのを目撃した。怖くて、しゃがみ込むことしかできなかった。阿久根の同級生はその時に死んだと聞いた。自分が生きているのは運が良かっただけだ。

 8月の空襲は、大阪に続いて2度目の大きなものだった。太平橋を渡り大小路側に着くと、地面に爆弾で大きな穴が空いていた。

 新聞が戦争をどう報じていたかは覚えていないが、大本営発表は「勝っている」という感じだったと思う。ただ、国民は負けていることにうすうす気付いていたのではないだろうか。戦争末期は爆撃機を使う敵に対して、竹やりで攻撃する訓練をしていたからだ。

 終戦後は、隈之城の女性に田んぼを借りて米を作った。女性は立派な家に住んでいて、掛け軸をくれた。今も続けるお茶に興味を持ったのは、その頃だった。

 川内高校を51年に卒業。教師になるため鹿児島大学へ進学を考えたが、国家公務員試験に合格し、父の薦めで就職を選んだ。川内郵便局に採用され、上川内郵便局長などを務め、65歳で退職した。樋脇町出身の妻・裕子(享年84歳)と結婚し、4人の子どもを育てた。

 今でも時々、つらかったことを思い出す。戦争の話を人にしたことはなかった。戦争は一般の人たちが犠牲になる。絶対にしてはいけない。

(2025年1月20日付紙面掲載)

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