1、2階部分が津波で流された震災遺構「たろう観光ホテル」=2月、岩手県宮古市
東日本大震災から14年。被災地では復興が進み、人々の新たな営みが定着しつつある。2月中旬、南日本新聞など地方紙の連携協定「JODパートナーシップ」の記者研修で三陸海岸沿いにある岩手県の宮古、釜石両市を訪ねた。被害を繰り返すまいと教訓の継承が重視される一方、その難しさも垣間見えた。
盛岡市からバスで約2時間。宮古市田老地区に着いた。ちょうど寒波襲来と重なり、厚着していても吹きすさぶ風に身がすくむ。空気が冷たくて耳が痛い。鹿児島ではあまり経験しない寒さだ。
2011年3月11日、田老は約17メートルの津波に襲われた。過去にもたびたび被害に遭った歴史があり、震災前は「万里の長城」と呼ばれる高さ10メートル、総延長2.4キロの防潮堤が地域を守っていた。ところが、津波はそれを乗り越え、街を飲み込んだ。死者、行方不明者は計181人に上った。「『防潮堤があるから大丈夫だべ』という油断と過信があった」。宮古観光文化交流協会が取り組むツアー「学ぶ防災」のガイド、元田久美子さん(67)はこう説明する。
漁港近くでは異様な建物が存在感を放っていた。震災遺構「たろう観光ホテル」。津波に襲われた1、2階部分は鉄骨がむき出しで、被害を免れた4~6階は時が止まったかのように往時の外観が残る。「当たり前が一瞬でなくなる」。被害の悲惨さを目の当たりにした。
新しい道路や商業施設、野球場、かさ上げされた防潮堤-。見た目には復興が進んでいる。震災の年に生まれた子どもはもう中学生だ。だからこそ元田さんは訴える。「生活が便利になり、時間がたつと忘れてしまう。伝え続けなければいけない」。自身も義母を亡くし、建てて5年目の家を流された。「たった一つの命は自分で守るしかない」。何度か目に涙をため、口ぶりが重たくなりながらも言葉をつないだ。
翌日訪れたのは釜石市鵜住居(うのすまい)地区。鵜住居小と隣の釜石東中の児童生徒約560人が自主的に高台に避難して命を守り、「釜石の出来事」と称賛される。
鵜住居駅の前にある「いのちをつなぐ未来館」の川崎杏樹さん(28)の案内で、子どもたちが避難した道をたどった。学校から約1.6キロ、高低差40メートル超の「恋の峠」を目指すルートだ。川崎さんは当時、釜石東中の2年生。バスケットボール部の練習中に地震が発生し、坂を駆け上ったそうだ。
恋の峠までの勾配はなだらかだが、寒さがこたえる。「地響きが聞こえ余震だと思ったら、津波で建物が壊れる音だった。街が海になっていた」と川崎さんは教えてくれた。登ってきた坂を振り返ってみた。助かった人、そうでない人。それぞれ何が見えたのか。いろいろな思いが交差した。
三陸地方には「津波てんでんこ」という言葉がある。津波が来たらてんでばらばらに逃げろという意味だ。「初期行動が少しでも遅ければ助かっていなかった」。すぐに行動して難を逃れた川崎さんは語る。「危機感を持ち続けるのは難しいけれど、多くの人に経験を伝えれば、誰かの命を助けることになる」