命じられたのは遺体収容。おびただしい数に驚いたが次第に慣れた。黙々とトラックへ積み込んだ。思い出すのは母親とはぐれた幼児。あの子はどうなったのだろう…今でも気に掛かる

2025/03/24 10:00
宝泉市二さん(88)
宝泉市二さん(88)
■宝泉市二さん(88)伊佐市大口平出水

 台湾の屏東(へいとう)師範大学を卒業後の1945(昭和20)年3月、千葉県松戸市の松戸城跡にあった陸軍工兵学校で、予備士官として架橋や戦車壕(ごう)、トーチカ造りなど工兵技術を学んでいた。

 食料事情は悪く、常に飢えていた。人の畑からネギ、大根を盗んだのが上官にばれ、2日間絶食させられたまま演習に臨んだ時は、「死んだ方がまし」と心底思ったものだ。

 3月10日未明から、東京・下町地区を襲った米軍の大編隊を城跡から眺めていた。カード状をした新型の焼夷(しょうい)弾が鮮やかな光を放ちながら落下していくさまは、不謹慎ながらとても幻想的に見えた。

 10日早朝、招集がかかり「空襲の片付けにいく」といわれた。30、40人がトラックに乗せられ出発した。土地勘がなく、どこに向かっているのか皆目分からなかったが、周囲は一面の焼け野原だった。車を降りたのは、銀行の焼け跡だったのだろう。現場には、紙幣が散乱していた。

 遺体収容を命じられ、2人一組で作業を始めた。建物の陰に黒焦げになった遺体がかたまっていた。驚いたのは、ビルの地下室に入った時だ。男も女も素っ裸の遺体約30体が折り重なっている。猛烈な熱さに耐えられず、服を脱いだのだろう。遺体は蒸し焼きされたように真っ白で、手や脚を持つとビッと身が裂けた。

 鉄道線路の土盛りわきには熱風を避けたのか、おびただしい数の遺体がうずくまっていた。川面も遺体でいっぱいだった。

 このような無残な遺体の群れを見たのは初めてで、最初は「うわぁー」とびっくりしたが、作業を進めるうちに慣れてしまい、無言のまま黙々と遺体をトラックの荷台に積み込んだ。トラックがどこへ向かったかは分からない。

 遺体ばかりの街にも、わずかな生存者がいた。焼けこげた馬の肉を多くの人が切り取っている風景も見た。思い出すのは、母親とはぐれた幼児だ。乾パンを5枚分けてやり、「救援所を尋ねていきなさい」と教えたが、その子がどうなったか、今でも気に掛かる。

 工兵学校を出た後は工兵として大阪府南河内郡で参謀本部の大規模地下壕掘削に従事し、休暇で郷里に戻っている時に終戦を迎えた。

 つくづく教育とは恐ろしいものだと思う。「死ぬことが奉公だ」という教育を受け続けると、死に対してどんどん鈍感になってしまう。

 戦後、念願の教職に就いたが、これまで東京大空襲の経験を子どもたちに話したことはなかった。話しても恐らく分かるまい、と思っていたからだ。

 90歳近くなった昨年になって、伊佐市の平出水小と大口小の児童に初めて戦争体験を話したところ、真剣に耳を傾けてくれた。子どもたちから寄せられた感想文を読んで、何事も話をしなければ継承されない、という当たり前のことに気付かされた。

 自分に残された時間はわずかだが、戦争の経験者が少なくなる中、その不条理や悲惨さをできうる限り、語り伝えていきたいと思っている。
(2011年4月14日付紙面掲載)

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