和泊町で米軍機からまかれたとみられるビラの写し
■永田 景章さん(96)鹿児島県薩摩川内市国分寺町
南さつま市加世田内山田で育った。加世田農業学校(現加世田常潤高校)に在学していたころ、学徒動員で自宅から4キロほどの万世飛行場造りに携わった。松林を切り開き、木や砂を運んだ。吹上浜からの敵の上陸に備えて、近くの山の斜面に穴を掘って板で囲い、機関銃を据える陣地を造るのにも携わった。
万世飛行場からは200人近い特攻隊員が飛び立ったと言われている。出撃の前夜は、近くの料亭で隊員を送る宴が開かれた。役場に勤めていた父親がその準備に携わっており、翌日に出撃があると分かった。
出撃日は朝から、家にいても飛行場から特攻機の爆音が聞こえた。しばらくして、3、4機の編隊が南の枕崎方向へ飛んでいく。機影が見えなくなるまで、手を合わせ涙していた母親の姿が今も忘れられない。
この企画(「語り継ぐ戦争」)で19年前、終戦直前の加世田に飛来したグラマン機がビラをまいたと証言した。1945年8月14日午前11時半ごろだ。ビラは中央に11時55分を指す時計の針が描かれ、「降伏シナサイ」などと呼びかける内容だったと記憶をたどって話した。
掲載後しばらくして、同じようなビラが和泊町の資料館に保存されていると連絡をいただいた。1から11までの時計の数字には、ニューギニア、サイパン、沖縄と戦地が記され、いずれも折れた日の丸が描かれている。12時の所に日本地図があり、「時は迫れり!!」と書かれていた。枕崎からも連絡があり、同じようなビラが広範囲でまかれたと知ることができた。
グラマン飛来の際、かまどの火の始末に手間取って逃げ遅れた。「やられた」と思ったが、機銃掃射はなかった。操縦士の顔が見えるほど低空飛行で、捕まって連れて行かれるのではと心配したほどだった。
終戦から間もなく、友達と万世飛行場に行くと飛行機が残されていた。監視もいなくて、乗って操縦かんを握った。
今も鮮やかに思い出すのが、41年12月8日だ。食事中、日本がアメリカに宣戦布告したとラジオで聞いた父が「しまった」と言ってはしを落とした。アメリカ帰りの義理の妹から、日米の力の差を聞いていて、勝てないと思っていたのではないか。もちろん、それを口に出すことはなかった。
万世飛行場の跡地に建てられた祈念館にも行った。自分とさほど年の変わらない隊員たちのことを思い、涙が止まらなかった。今は野菜作りをしたり、新聞の「ひろば」欄に投稿したりしている。あのとき生き延びたから今がある、と思っている。
(2025年4月28日付紙面掲載)