大和魂の勝利を信じた軍国少女。終戦、そして20歳で老舗に嫁入り。昭和100年、「生きることは仕事の虫になること」だった

2025/04/28 11:55
昭和初期、海江田家の家族写真。右から2人目が吉峯睦子さん
昭和初期、海江田家の家族写真。右から2人目が吉峯睦子さん
 今年は昭和100年に当たる。100歳を迎える人たちは、青年期までを軍国主義に染め上げられていく社会で育ち、20歳でその破綻に直面した。以来80年、民主主義国家としての再生とともに、それぞれの人生を歩んできた。29日の「昭和の日」に合わせて、鹿児島県内の3人に激動と変革の時代を振り返ってもらった。(連載「昭和100年と私」㊤より)

■吉峯睦子さん(鹿児島県南さつま市)

 鹿児島市潮見町(現・泉町付近)で米問屋を営む海江田家の次女に生まれた。日中戦争が始まったのは1937(昭和12)年7月、11歳の時だ。「日本は強い」と信じていたから、ヒット曲「兵隊さんよありがとう」を高らかに歌いながら、女子師範学校付属小学校に通ったという。

 真珠湾攻撃は県立第二高等女学校(二高女)3年生、16歳の時。「すぐにも反撃の米軍機が鹿児島を襲うと思い、恐ろしくなった」。米国の国力は察しがつく年齢になっていた。

 最終学年の5年生になると、「報国隊」として谷山の田辺航空工業で軍用機の部品を作った。卒業後も「女子挺身(ていしん)隊」として同じ工場で働いた。戦意を高揚する工場長の講話に気持ちを奮い立たせる軍国少女で、大和魂の勝利を信じた。暮らしを一変させたのが、45(同20)年6月17日の鹿児島空襲だ。街を焼く焼夷(しょうい)弾の炎が目に焼き付いた。「人生で一番長く、つらい夜だった」と語る。

 同年8月15日の終戦翌年の4月、20歳で南さつま市の「丁子屋」の跡取り吉峯幸一さんと結婚した。しょうゆの製造販売など幅広く事業展開する江戸時代からの老舗、16人所帯の長男の妻になった。

 預金封鎖、農地改革、新円切り替え…。終戦を機に、経営環境は激変した。愚痴一つ言わず時流に対応する義両親の姿に、明治生まれの生真面目さを学んだ。

 従業員の一人としての業務に加え、掃除洗濯、食事の準備と休む暇はない。「生きることは仕事の虫になることだった」と振り返る。

 ガソリンスタンドの切り盛りが思い出深い。47(同22)年から20年近く続いた大浦干拓事業の工事車両や、野間岬方面に向かう釣り客が上得意客だった。クラクションの合図が響けば深夜でも店舗に出て、ポンプを操作した。クラクションで飛び起きる、起こされてもすぐまた眠れる、この二つが特技になった。

 丁子屋は何度か危機に直面しつつ、現在もしょうゆなどの調味料販売で屋号を残す。60歳で定年退職し、今は事業所内の石蔵で月1回開くブックカフェでの語らいが一番の楽しみだ。

 吉峯さんは「昼寝をしたことがない」という。「起きている間中、忙しく動き回っていたから」。100歳を迎える今年、人生経験を語ってほしいと頼まれることも増えた。1歳年上で、「ありがとう、おいしかった」が口癖の幸一さんと寄り添いつつ、昼寝をする暇のない日々が続く。

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