「天皇のため死ねず」屈辱味わった整備兵は戦後、陸上100歳クラスで世界記録を出す。同級生の戦死、一度辞めた走り…「今はいい時代になった」

2025/05/01 11:54
戦時中の経験を語る宮内義光さん=25日、鹿児島市五ケ別府町
戦時中の経験を語る宮内義光さん=25日、鹿児島市五ケ別府町
 今年は昭和100年に当たる。100歳を迎える人たちは、青年期までを軍国主義に染め上げられていく社会で育ち、20歳でその破綻に直面した。以来80年、民主主義国家としての再生とともに、それぞれの人生を歩んできた。29日の「昭和の日」に合わせて、鹿児島県内の3人に激動と変革の時代を振り返ってもらった。(連載「昭和100年と私」㊦より)

■宮内義光さん(鹿児島県鹿児島市)

 鹿児島市西別府町で農業を営む前田家に、6人きょうだいの三男として生まれた。日々の食卓はアワとサツマイモ。月に一度のイワシ1匹がごちそうだった。

 田上尋常高等小学校(現田上小学校)までの8キロを毎日はだしで走った。足腰が鍛えられ、学校の持久走はいつも一、二を争った。

 卒業した1939(昭和14)年、15歳で大阪の町工場に出た。4年半過ごしたころ、心細さに耐えきれずひそかに実家へ手紙を送った。「工場に『ハハ キトク』とうその電報を打ってほしい」-。その通り電報が工場に届き、帰郷した。

 20歳で受けた徴兵検査は「第二乙種」だった。工場で培った技術を見込まれたのか、千葉の航空工場に整備兵として派遣された。大きな屈辱だった。「男は天皇のために死ぬものと本気で思っていた」からだ。

 千葉の隊員宿舎で玉音放送を聞き、46年に焼け野原の鹿児島へ戻った。同級生の多くは戦死していた。

 翌年、鹿児島市水道課(現水道局)に就職。足の速さに自信があり、陸上部に入った。職域駅伝大会でアンカーを託され優勝するなど、実績を上げた。

 51年にいとこの宮内トヨ子さんと結婚し、婿養子に入った。それを機に陸上をやめた。当時は男尊女卑の風潮が色濃い時代。すでに名の通ったランナーだったため「他の選手たちに名前が変わったと知られたくなかった」と回顧する。

 以後30年以上、大会には出ず、仕事に打ち込んだ。周りの目を気にして諦めた悔しさはあったが、徐々に熱も薄れていった。ただ、健康のために毎朝1〜2キロ走ることは続けた。

 転機は民間企業に再就職して間もない87年。職場の後輩に「ランニング桜島」に誘われ、60歳以上の部で2位になった。負けず嫌いだったかつての気持ちがよみがえり、毎朝10〜20キロ走る生活を始めた。「心のどこかで走りたいという欲求があった」と振り返る。

 90年の鹿児島マスターズ陸上選手権では、65〜69歳のクラスで5000メートルに出場し、18分49秒30の日本記録を出した。以降、数々の記録を打ち立て、2024年は100〜104歳クラスの3種目で世界記録を更新した。「世間体から一度はやめた陸上。今は105歳まで走りたい」という。

 7月で101歳になる。昭和、平成、令和を生きる中で、寛容さや多様性の大切さが身に染みた。「たとえタイムが遅くても互いに励まし合う。いい時代になった」。心からそう思っている。

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >