満州、ソ連での戦争体験を語る原田明男さん=霧島市
■原田明男さん(100)霧島市国分中央6丁目㊤
霧島市牧園で7人きょうだいの次男として生まれた。1944年春、徴兵年齢が引き下げられたため19歳で検査を受けた。
10月15日、鹿児島市下伊敷の歩兵第45連隊に入隊。練兵場に1泊する際、爪と髪の毛を切れと言われ、封筒に入れて名前を書いた。これから行くのはおそらく日本の外なのだろうと思った。16日、800人ほどで軍用列車に乗り、福岡の門司へ。船で朝鮮半島の釜山に向かい、列車に乗り換え満州(現中国東北部)に入った。
10月だったが寒かった。物資が不足しており、支給されたのは革靴ではなく地下足袋、水筒も竹で作ったものだった。
部隊が編成され、第119師団歩兵第254連隊(満州第481部隊)に配属された。免渡河(メントカ)で3カ月間の初年兵訓練を受けた。歩き方や銃の使い方など、初歩的な戦いができるような内容だった。
私は中隊で1人、衛生兵の勉強を命じられ、海拉爾(ハイラル)の第2陸軍病院で45年6月までけがの手当などを学んだ。日本の戦況などの情報は入ってこず、家族に手紙も書けなかった。その後は部隊に戻り、大興安嶺山脈の長釘山と呼んでいた山で、岩を削って兵隊が隠れる場所などを作る陣地構築に加わった。
8月9日未明にソ連軍が満州に侵攻。上空からは飛行機が爆弾を落とし、道路からは戦車が入り込んできた。各隊から選ばれた兵士は、道路脇に身を隠すために掘った「たこつぼ」で待ち伏せし、爆薬の入った「破甲爆雷」を持って自ら戦車に突っ込んだ。
16日の夕方、私も12人ほどの兵士とその肉弾攻撃を命じられた。爆薬を持って山の麓にある浜州線の伊列克得(イレクト)駅に向かう途中、伝令兵から緊急で戻るよう伝えられ、終戦を知った。
一連の戦闘で部隊の133人が死んだ。近くの山からロシア語で万歳を意味する「ウラーウラー」という声が聞こえた。隣の山の隊は全滅だった。長釘山も何度か迫撃砲を受け、テントが吹っ飛んだ。弾が飛んでくる「ヒューン」という音を覚えている。
18日に武装解除となり、大雨の中、博克図(ブハト)まで一晩中歩いた。ソ連兵に監視されながら、喉が渇くと雨水を飲んだ。肉弾攻撃に失敗したのだろう、線路沿いには、戦友がたこつぼの中で死んでいた。悲惨だった。ブハトに着いて1週間足らずでシラミが湧いた。日本に帰れると言われ貨車に乗ったが、進行方向は逆だった。国境付近にあった「大満州帝国」と書かれた木が、反対側に通り過ぎていくのが見えた。
旧ソ連に入り、チタの手前で、トイレ休憩のために貨車を降りると、貧しい格好をした現地の民間人がパンを差し出し、時計や石けんと交換してくれと近づいてきた。勝った国とはいえ、貧しい生活をしていた。どこの国も、戦争のせいで一般市民にしわ寄せがきていたのだと思う。
(2025年5月7日付紙面掲載)