「歴史を風化させないでほしい」と語る伊村トヨコさん=徳之島町亀津
■伊村トヨコさん(81)徳之島町亀津
1944(昭和19)年6月29日の朝、亀津町(現徳之島町)南原で、海の向こうから響く「ボー、ボー」という汽笛を聞いた。当時は中学校2年だった。日本軍が何かを成功して凱旋(がいせん)したのだと思い、浜に走った。するとドーンという爆発音が鳴り響き、火柱が見えた。青い海は炎で真っ赤に染まっていった。後に同町亀徳沖3キロで撃沈され、3724人が亡くなった輸送船「富山丸」の最後の悲鳴だったと知った。
火柱を見て、すぐに2歳の弟を背負い、13、7歳の妹2人と母親で防空壕(ごう)に逃げた。若い男たちは富山丸の犠牲者の捜索に当たったが、焼けただれた遺体ばかりで地獄絵図のようだったと聞いた。あっという間に大勢の人が死んでしまうと思い知った。
島に奄美守備隊が配属されるころ(44年7月)には、かつて豊富だった食糧も不足ぎみになった。同年10月には1回目の空襲があり、逃げることが日常化した。白い制服の警官は刀を持って食べ物や貴重品を隠していないか見回り、怖くて全員が全部を差し出していた。
自給自足の時代で、農作業なしでは食べられず、残った島民は空襲の合間に草やつるを身にまとい畑に出た。米軍機は4機一組で飛来した。音で分かるが、すぐに接近する。目立つ色は発見されると恐れ、爪や白髪頭さえも隠した。必死で岩の隙間に隠れ、川に飛び込んだ。機銃が直前までいた場所に撃ち込まれたこともあった。
夜は照明弾が闇を照らした。電球は黒い布で光を囲み、かまどはむしろで覆って煙を隠した。それでも近くの家が爆撃され1人が亡くなった。爆風は遠くからでもサーと来る。風を受けるたびに、誰か亡くなっていないか不安になった。
母は助産師をしており、防空壕から出産の手伝いに出た夜もあった。照明弾は壕の中もフラッシュのように照らした。怖くて、妹たちと一緒に泣いて夜を明かした。
父は島の山中の部隊に配属され、偵察を始めていた。女性たちも米軍上陸の際は、浜に隠れ竹やりで兵士を突くよう指導を受けた。いよいよ島でも戦争が始まる、いつ死んでもおかしくないと思い始めた。
終戦をどう知ったのか、はっきり覚えていない。しかし、派遣や疎開で島外に出ていた島民たちが、時に1カ月近くの密航など必死の思いで戻ってきた。ともに今の状況を全く知り得ず、ただただ、生きて再会できたことを喜び合った。
終戦直後は島を2度の台風が襲い、島は悲惨そのものだった。が、49年に結婚した夫からは広島沖で原爆の光と川を覆う死体を見たと聞いた。沖縄から徳之島にきた「うるま劇団」からは、集落が戦場となるなど壮絶な話を耳にした。全国各地で悲劇があったと思うと、いたたまれなかった。
劇団から教わった歌を口ずさむと当時をはっきりと思い出す。歌詞は「広い世間のその中で 聞くも哀れな物語 聞いてください みなさまよ」で始まる。今は比べられないほど豊かな生活になったが、身近に歴史を聞く機会が少なくなったと感じる。苦難の上に、力を合わせ乗り越えてきた歴史だ。決して風化させてはならない。
(2011年8月9日付紙面掲載)