〈資料写真〉「定年祝う会」で教え子から記念の盾を受け取る塩瀬さん(右)=1999年7月、鹿児島市
16日に他界した鹿児島商高野球部の元監督・塩瀬重輝さん(86)の訃報を聞き、野球関係者からは悲しみの声が相次いだ。
高校時代に鹿商のユニホームを共に着た、プロ野球中日の井上一樹監督(53)は「この世界で生かしていただいているのは塩瀬監督のおかげ」と感謝し、「財産をなくし、悲しい気持ちでいっぱい。天国から見守ってください」とコメントを寄せた。
甲子園を目指し、県代表の座を争った名監督たちも思い出を語った。鹿実高を率いた久保克之名誉監督(87)は「理論に沿うプレーもあれば、奇策で意表も突いてきた」。1986年の山梨国体優勝を挙げ「塩瀬さんは鹿児島に初めて日本一を持ってきた。名将だった」とたたえた。
鹿児島商工高(現樟南)の監督を長年務めた枦山智博さん(81)は「(素質のある中学生ら)選手を集めるのがうまかった。鹿児島の高校野球界がまた寂しくなった」と残念そうにつぶやいた。
鹿児島中央高の末永広樹監督(53)は、鹿商高時代に選手として3年間、塩瀬さん宅に下宿していたという。当時の野球部は、約150人の大所帯だったが「全員の名前をすべて覚えていた。選手愛にあふれた人だった」と振り返る。
恩師から教わった「うまくいかないときにどう耐えるかが大切。野球は人生の縮図だ」。その言葉を、今も選手に伝えている。