加治木空襲で亡くなった兄の思い出を語る稗田正さん=鹿児島市荒田1丁目
■稗田 正さん(91)=鹿児島市荒田1丁目
終戦4日前の1945年8月11日、加治木(姶良市)の大空襲で当時16歳だった5歳上の兄親治(ちかはる)を失った。
家は小浜(霧島市隼人)にあり、6人きょうだいだった。上2人は出征していて、三男の親治は旧制加治木中学校(現加治木高校)4年生だった。その日は出校日で、1年の義弘(四男)と学校に行っていた。校庭のからいも畑の草取りをしていたようだ。
80年も前のことで、当時の記憶はあいまいなところも多いが、小浜国民学校5年だった私は家にいたと思う。加治木の方から煙が上がっていたのを見たような気がする。
米軍の焼夷(しょうい)弾と機銃掃射が加治木の街を焼け野が原にして、加治木中だけで15人の死者が出たことを知ったのは、ずっと後になってからだ。
あの日、義弘は上半身裸で命からがら帰ってきたが、親治がいつまでたっても帰ってこない。居ても立ってもいられず、父が学校に行ったら、立ち入り禁止で入れなかったという。
翌日、親治の遺体が手押し車に乗せられて自宅に帰ってきた。私は親戚の人に「絶対に見なさんな」と言われた。黒焦げであまりに無残な姿だったからだ。ベルトのバックルで本人と特定されたと聞いた。
兄の写真は残っていないから顔はよく分からない。一緒に遊んだ覚えはないが、戦時中だったから、強い兵隊になるための訓練を自宅の庭で一緒にした。
5、6本の木を横にして束ね、それを「やー」と大声を出して木の棒で打ちつけたり、木で作った“鉄棒”で懸垂をしたり、学校に行く前にやっていた。
当時のことで特に鮮明に覚えているのは、兄が小浜から十数キロ離れた国分の飛行場に1カ月ほど学徒動員で行っていた時のことだ。久しぶりに休みがあることが分かり、父母ができる限りのごちそうを作って面会に行った。
すると兄がそのことは知らずに自宅に帰ってきてしまった。すれ違ったことを知ると、兄は泣きそうな顔をして、がっかりした様子で、また歩いて飛行場に帰って行った。往復30キロぐらいあったんじゃないか。結局その日は両親と会えずじまいだった。親子の情愛を思うと今でも胸が痛む。
兄は頭が良くて優しくて両親にとって自慢の息子だった。戦争の役に立つ、軍の幹部候補生を育成する学校に行くことを夢見ていたようだ。当時はそういう夢しか描けなかったのだろう。
兄亡き後、両親は兄のことをあまり語ろうとしなかった。私は、悲しみに沈む両親のことを思って、兄の分も頑張ろうと勉強して加治木高校に進学した。
加治木高校では、通学途中に銃撃を受けた1人を加えた16人を悼む「殉難学徒の碑」が建てられた。兄の名も刻まれ、毎年8月11日に慰霊祭が開かれているという。
2007年には、16人の卒業証書が遺族らに授与された。私も兄の代理で受け取り、「生きていろんなことをしたかっただろうな」とあらためての兄の無念を思った。
当時の記憶はどんどん薄れていくが、今も世界のあちこちで戦争で苦しむ人がいる。絶対にやってほしくない。日本が唯一の被爆国なのに、核の傘に守られているというのも割り切れない。
戦時中の運動会で、わら人形を作って、敵国の指導者をののしりながら竹やりで突き刺していた。もうあんな時代に戻ってはいけない。
(2025年6月27日付紙面掲載)