「戦争だけはやめてもらいたい」と語る森屴さん=南さつま市加世田武田
■森屴(たかし)さん(91)南さつま市加世田武田
加世田農学校を卒業し、台湾総督府専売局に勤めた。1940(昭和15)年に台湾で陸軍に徴兵され、千葉の防空学校に入営した。翌年の夏、南方の高射砲が当たらず、現地で教育するため、台湾第72部隊としてニューブリテン島のラバウルへ。半年の予定が終戦まで残り、46年5月に復員した。
ラバウルでは空襲を受け続けた。艦砲射撃は恐ろしかった。音がするだけ。夜は敵の戦闘機が照明弾を落として日本軍の陣地を把握し、そこに砲撃する。弾ははるか海から的確に来た。山の間からは戦闘機が、それこそヤギの糞(ふん)がボロボロ落ちるようにブアーっと何百機も飛来し爆弾を落とす。日本軍も高射砲で反撃した。敵もだいぶやられたと思う。被弾した戦闘機から脱出した米兵の落下傘に火が移り、落下傘が燃えて落下することもあった。かわいそうだった。
まもなく撃ち返す弾は尽きた。それなのに空襲があると、将校に「陣地に着け」と言われたことは今も一番思い出す。「死ね」と言うようなもの。私たちは弾のない大砲のそばで小さくなっていた。将校は兵隊をどう考えていたのか。「おまえなんか死んでも、代わりはどんどん来るんだ」。平気でそう言われた。はがき一枚で召集すればよいのだから。私らは召集令状の郵便代、一銭五厘の価値しかなかった。
敵は日本兵を眠らせないよう夜に空襲した。陣地に着くため、空襲のたび防空壕(ごう)から駆け上がらなければならなかった。毎晩駆け上がっていては体が持たない。空襲のない昼間、陣地の横にねぐら用の穴を掘った。私はその時手をけがしてしまい戦闘に参加できず、近くの壕の中から様子を見ていた。翌日、私が掘った陣地の横の穴は直撃弾を受けた。穴にいたら死んでいた。一番つらかったのは、食べ物がないこと。カライモとキャッサバを1週間に湯飲み茶わんで1杯食べただけ。生きていれば、それだけつらい思いをする。一日でも早く死にたかった。
今考えれば、「死にたい」と言っていたヤツはあまり死なず、一人息子とか長男とか「絶対、俺は生きて帰る」と言っていたヤツがほとんど死んだ。妙なものだ。戦争は。私は兄貴が家にいたから、いつ死んでもよかった。食べ物もないし、一日でも一時間でも早く死にたかった。壕に退避しろ、と言われても、壕の前にボサーッと立っていた。弾なんて妙なもの。そういう人間には当たらない。弾は私の横を抜けて壕の中に入り、奥にいた仲間がやられた。私のような人間が生きて帰り、生きて帰りたいヤツが帰れなかった。
戦争はなあ、やっちゃいかん。戦争だけはやめてもらいたい。ラバウルから一緒に帰ってきた連中もほとんど死んだ。私みたいな「がらくた」が長生きしている。
葉タバコは専門だった。うちの部隊だけ葉タバコを育てられた。各部隊にも葉タバコの種を配ったが、育て方を知らず、ほかの部隊は発芽させられなかった。うちの隊はたばこには不自由しなかった。47年に結婚し、専売公社で働いた。今もたばこが好き。野球は高校野球がいい。どっちが勝ってもいいから。人間なんて本当に何が運か分からない。ただ、長生きはやっぱい、こい(妻アツさん)のおかげだろう。
(2011年8月19日付紙面掲載)