水上特攻艇「震洋」に志願した。戦況は不利で、立たずにはいられず、死ぬことは怖くなかった。だが上官は認めてくれなかった。8人きょうだいの長男だったからか。

2025/07/07 10:00
陸戦隊時代の帽子を手に記憶をたどる白川節夫さん=えびの市昌明寺
陸戦隊時代の帽子を手に記憶をたどる白川節夫さん=えびの市昌明寺
■白川節夫さん(83)えびの市昌明寺

 1944(昭和19)年6月、志願して海軍甲種飛行予科練習生の14期生となった。当時は旧制小林中学校4年。優秀な人が海軍兵学校や陸軍士官学校に進学する中、「自分も国のために役立ちたい」との思いが強まっていた。

 「飛行機といったら死ぬことは決まっている。このばかが」と、父は猛烈に反対した。しかし、「合格通知がきたのだから」と押し切った。父の最後の言葉は、「行ったらもう帰ってくんな」だった。

 配属された愛媛県の松山海軍航空隊で、基礎的な訓練を重ねた。飛行機乗りになりたかったが、適性検査を経て偵察担当に回された。残念だったが、決まった後はモールス信号や、夜間に光で通信する発光信号などの技術習得に努めた。

 半年近く松山にいたとき、水上特攻艇「震洋」での特攻を志願した。震洋は、小型のモーターボートに火薬を積んで敵の船に体当たり攻撃をかける。戦況不利が伝えられる中、立たずにはいられなかったし、死ぬことを怖いとは思わなかった。書面に血判を押し、上官に思いを伝えた。しかし、聞き入れられなかった。後になって長男や一人息子は外されていたらしいと聞いた。自分は8人きょうだいの長男だった。

 同年11月から高知県の浦戸海軍航空隊に移り、陸戦隊の一員となった。浦戸の海岸は当時、鹿児島の吹上浜や宮崎の一ツ葉海岸とともに米軍の上陸がうわさされた場所。敵の上陸用舟艇への攻撃訓練が続いた。

 海岸では「たこつぼ掘り」にも追われた。たこつぼは、人一人が隠れられる程度の穴。ここに爆雷を抱いてひそみ、敵に突撃する役目も負っていた。ここでも死を覚悟したが、結局、実戦を体験しないまま、45年8月になった。ラジオから流れた雑音交じりの玉音放送で敗戦を知り、力が抜けた。

 なぜ生き延びたのか、なぜ負けたのか…。失意の中で、隊から渡された切符を手に9月、列車で小林町(現小林市)の自宅に向かった。到着すると母は喜んでくれたが、家の中に入ることを父が許してくれなかった。理由が分からないまま、近くで野宿し、家に入れたのは4日目の夜。父親は「そうせざるを得なかったのだ」としか言わなかった。

 その後、母や妹と話すうち、父の苦悩を知った。同年8月10日、父が校長を務めていた西小林国民学校の児童らが勤労奉仕に向かう途中、米軍の機銃掃射を浴びた。同じ隊列にいた妹2人は奇跡的に無事だったが、児童を中心に10人が犠牲になっていた。

 父の自責の念は強く、宮崎県教育会(当時)に自決伺を出し、止められていたという。わが子は難を逃れ、さらに長男まで戻ってきてしまった。遺族の心情を察し、すぐには家に迎え入れられなかったのだろう。生きて帰ったことがつらかった。

 苦しい時代を思い出すので、予科練時代について話したくない時期もあった。しかし今は、戦争の恐ろしさと一緒に語り継ぐのが、生き延びた者の務めだと考えている。

(2011年8月21日付紙面掲載)

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