「軍神 横山正治少佐の碑」前に立つ横山正照さん=7月5日、鹿児島市郡元町
アジア・太平洋戦争では、日本人だけで少なくとも310万人が命を落としたとされる。一般市民80万人に対し、軍人・軍属は230万人。この中には特別な武功を軍が認め、生い立ちや人柄まで新聞などで詳しく報じられ、「軍神」と呼ばれるようになった人もいた。1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃で戦死した鹿児島市出身の横山正治少佐=当時23歳=もその一人だ。多くの市民が殉国の物語に感泣し、特攻勇士への尊崇の念に心を高ぶらせて戦意を高揚させた。
鹿児島市の郡元墓地の一角で、桜島と向き合うように「故海軍少佐 横山正治」と記された墓石が立つ。傍らには「軍神 横山正治少佐の碑」があり、年譜が刻まれている。
横山少佐は1919(大正8)年に同市下荒田の精米店に生まれた。県立鹿児島第二中学校(現在の甲南高校)から海軍兵学校に進み、職業軍人になった。
全国にその名が知られたのは真珠湾攻撃の「武勲」だ。ハワイの米艦隊拠点を奇襲した日本海軍の攻撃隊の一員だった。ただし、作戦の主役だった航空機の搭乗員ではない。2人乗りの「特殊潜航艇」で海中から湾内に侵入して魚雷を放つ、極秘任務の要員だ。
ほぼ一方的な勝利で幕開けした対米戦争に、国民は興奮した。大本営海軍部が戦果のまとめを発表したのは、攻撃の10日後。航空部隊の活躍に加え、特殊潜航艇が戦艦アリゾナ型1隻を撃沈したことや、出撃した5隻が未帰還であることが国民に伝えられた。
翌年3月6日、大本営は横山少佐を含む搭乗員9人の氏名を明らかにした。「尽忠報国の本分」を尽くした勇士に興味が集まった。
■生還度外視の出撃
特殊潜航艇は海軍内で「甲標的」と呼ばれた秘密兵器だ。潜水艦に搭載され、攻撃目標近くで切り離される。警戒の厳重な真珠湾に侵入し、防潜網をかいくぐって米艦に近づくのは至難の業。魚雷を放てば居場所がばれて、集中攻撃を浴びるのは必至だった。
潜水艦隊が真珠湾攻撃に潜航艇を投入したいと具申した時、山本五十六・連合艦隊司令長官は認めなかった。自殺的な戦術は認可できないとの理由だ。だが、攻撃後に湾を脱した艇乗員を潜水艦で収容する態勢を取ることで、出撃は容認された。
とはいえ、生還の見込みは極めて低い任務であることに変わりはない。実際に真珠湾からは1隻も戻らなかった。
大本営が発表した潜航艇による「戦艦アリゾナ撃沈」は、確かな情報とはいえない。日本の航空機部隊の報告も、米側の資料にも、アリゾナは空爆の直撃弾を複数受けて沈んだとある。
戦果の不確かさをよそに、殉国の武勇伝は熱気を帯び全国の新聞などで報じられた。命令とあれば喜んで死地に赴く気構えに裏打ちされた「日本の軍人にだけできる史上空前の壮挙」といった論調一色だった。
鹿児島日報(南日本新聞の前身)の42年3月7日付朝刊は、「遂に還らざりし特別攻撃隊勇士」の大見出しとともに関連記事で埋まった。「9軍神」の勇敢さや純粋さの物語が美しく描かれた。「中に弱冠廿三の薩摩隼人」と横山少佐が紹介され、哀悼の涙を誘った。
■戦果より自己犠牲
当時、「軍神」の明確な定義があったわけではない。鹿児島関係では1905(明治38)年の日本海海戦でロシア艦隊と戦った東郷平八郎が「軍神」といわれた。国の命運を決する戦闘に勝利した指揮官の神格化だった。
横山少佐は真珠湾攻撃の時は中尉だ。戦死で2階級昇級して少佐と呼ばれたものの、指揮官ではない。それでも、この若者を「神」と呼ぶことを当時の社会はためらわなかった。
特殊潜航艇は5隻出撃したから乗員は計10人なのに、軍神が9人なのは理由がある。1人は米軍に捕まり、対米戦争の捕虜第1号となったからだ。日本軍人にとって捕虜は不名誉の極み。大本営海軍部はこの事実を完全に無視した。
9軍神の中でも特に横山少佐は知名度が高い。岩田豊雄(獅子文六)が42年7月から朝日新聞に連載した小説「海軍」の主人公のモデルとされた影響が大きい。翌年つくられた映画ともども大ヒットした。剛毅木訥(ごうきぼくとつ)で努力家、親孝行の横山少佐像が定着した。
■語らなかった親族
今月5日、同市西伊敷3丁目の横山正照さん(81)が郡元墓地に足を運んだ。父、正利さん=75年、70歳で死去=は横山少佐の兄だ。
43年生まれの正照さんは横山少佐に会ったことはない。だが、少佐が戦死してからちょうど2年後の12月8日生まれで、縁と親しみを感じるという。
正照さんの父は横山少佐のことを一切話さなかった。ただ、少佐のノートや手紙類は大切に保管していた。引き継いだ正照さんは、全てを黎明館に寄託した。
正照さんにとって、叔父は映画や書籍を通して知るしかない。「軍神」ともてはやした世間の空気は敗戦を機に一変し、親族まで戦争犯罪人のように非難されたこともあったと知った。語らなかった父の胸中も理解できる気がするという。「社会が生み出した軍神とは何だったのか、戦争を忘れないためにも考え続けていきたい」と語る。
●従順、忍耐…国が求めた母親像
鹿児島日報は横山正治少佐を大々的に報じた翌日、1942年3月8日付で少佐の母、タカさんに光を当てた。「あの子にどんな手柄がありましたことか、何にも存じませんが」で始まる談話を掲載している。
紙面の写真のタカさんは、自宅の仏壇の前でややうつむいて正座している。「天皇陛下の子供で、自分の子供にして自分の子供ではございません」との言葉が紹介され、気丈で謙虚なイメージで描かれる。
同月末には当時の東條英機首相も横山家を訪れた。首相は少佐の兄も中国戦線で戦死したことを聞き、「立派なお子さんをお育てくださって感謝のほかありません」とタカさんをたたえたと記事にある。
当時の文部省が同年5月に発表した「戦時家庭教育指導要項」は、「従順、温和、貞淑、忍耐、奉公」を「日本婦人本来の美徳」とうたっている。鹿児島県教育会が同年暮れに発行した冊子「軍神横山少佐」は、タカさんを「労苦を労苦とせぬ精神の持ち主」と称賛。さらに「郷土の後進は薩摩の母の名をそのまま日本の母に置き換え、あすの日本の御楯(みたて)を育て上げねばならぬ」と、読者を諭す。
新聞も国も県も、模範的な母親像をタカさんに投影して軍神の物語を彩った。
8男5女に恵まれたタカさんが70歳で死去したのは45年6月18日。三女、四女、五女も同じ死亡日だ。6月17日夜の鹿児島空襲による戦災死である。
横山家は日中戦争以降、六男の横山正治少佐だけでなく次男と四男も戦死した。タカさんは精米店で粉まみれになって働きながら13人の子を産み、その大半と自らの命を戦争で失った。国家が家庭の母親に求めた従順や忍耐は、あまりにも過酷だった。
(2025年7月13日紙面掲載)