蒲生国民学校での疎開体験を語る河北英世さん=南種子町中之上
■河北英世さん(76)南種子町中之上
太平洋戦争末期、ついに米軍が沖縄に上陸。次は本土攻撃の足掛かりに種子島を占領するのでは、との懸念が広がった。そのため中平国民学校(小学校)の児童は、姶良市の蒲生国民学校に集団疎開することになった。9歳のときだった。
疎開したのは、2~6年生224人と先生5人、児童を世話する20代の女性(保護婦)15人。1945年4月27日朝、学校を馬車で出発。28日朝、船で鹿児島港に着いた。鹿児島駅から汽車で帖佐駅に向かい、同日夜、蒲生国民学校に到着。校庭での食事後、各公会堂(公民館)に分宿した。私は宮脇公会堂で生活することになった。
連日の空襲警報で授業どころではなかった。サイレンが鳴るたびに、学校裏にある八幡神社の大クスの下へ避難した。空襲の恐ろしさやホームシックの寂しさを、蒲生川での川遊びで紛らわしたものだ。石ころで仕掛けをつくり、アユやフナ、コイを捕まえたのは楽しかった。
悲しい思い出もある。宮脇公会堂の近くに梅がたくさんなっており、黄色く熟れた物を黙って頂いた。しかし、そのうち熟れるのを待ちきれずに青いまま失敬。すると私を含め、梅を食べた児童が次々と法定伝染病の赤痢に感染した。病原菌が付着しやすい青梅を食べたことが原因だったのではないかと思う。
赤痢は激しい便意を催し、粘液質の血便などを漏らす。昼は便所から部屋に戻る間もなく、床下のムシロで寝ていた。夜は便所に間に合わず、縁側にたどり着くのがやっと。朝方、縁側の汚れはすさまじかった。
宮脇公会堂は他の公会堂の患者も受け入れ、隔離病棟と化した。その間、最初に感染した3年の男の子が亡くなった。死因は赤痢ではなく栄養失調という。石神鎌造医師(後の蒲生町長)が、たくさん食べて体力をつけるよう指導してくれたおかげで、2番目に感染した私は命拾いしたようなものだ。
赤痢の集団感染を聞いた親が駆け付けようとしたものの、西之表を出港後間もなく、船の機関故障で航行不能に。敵機の機銃掃射も受け、荒れ狂う太平洋を4日間漂流した。父英夫は当時の様子や心境を日記に残した。「疎開の子らの病気を癒やしての帰りであるならば思ひ残すこともないが、面会すらできず死に、フカのえさになることはこの上もなく残念」。船板でこぎ、船のカバーを帆にするなどして大隅半島の岸良(肝付町)に漂着。九死に一生を得た。
「皆、栄養状態良好ならず。顔色青く眼力なく、体、手足はあかだらけにて父なし母なし子と同然なり」「英世は(中略)いまだ元気なく、そのやせ方には驚きたる」。やっとの思いでわが子に再会できたとはいえ、心配が尽きなかっただろう。
戦争は悲しい。殺りくと破壊以外の何物でもなく、親と子を引き離す。蒲生の人々は自分たちの食べ物すらないのに、見も知らない私たちを温かく受け入れてくれた。大変な迷惑だったと思う。今でも本当に感謝している。学童疎開が縁で中平小と蒲生小は1976年に姉妹校盟約を結んだ。今後も両校の絆が深まることを祈っている。
(2012年6月13日付紙面掲載)