黄色く腐っていく指、便も凍る極寒…ソ連兵が監視するシベリア。戦友は直視できないほど痩せて死んだ。日の丸を掲げた船がいた光景は一生忘れない

2025/09/01 10:00
満州の牡丹江で撮影した自身の写真を手にする=曽於市末吉町二之方
満州の牡丹江で撮影した自身の写真を手にする=曽於市末吉町二之方
■吉牟礼増雄さん(88)曽於市末吉町二之方

 満州の哈爾浜(ハルビン)で3カ月軍隊教育に明け暮れた後、1945(昭和20)年、牡丹江で陸軍の弾薬部隊に就いた。実際は弾薬を作ることはなかった。戦況が思わしくないのは、うすうす分かっていた。部隊長、中隊長の軍馬を引いたり、馬で後を付いたりする任務だった。

 戦争に負けたのか、はっきり分からない中、ソ連が攻めてきた。「戦っていない相手がなんで来るのか」と思った。腕時計を奪われ、銃、物資まで取られた。

 女性たちはソ連兵から身を守りたい一心で「軍服をください」と頼みに来た。頭を丸め、兵隊帽をかぶり、ともに行動したりした。

 牡丹江から敦化まで南下した。1週間ぐらい歩いたか。食料が尽き、馬を殺し、焼いて食べた。このときは日本に帰れると思っていた。敦化がシベリア抑留の集合場所とは思っていなかった。

 45年10月だったと思う。敦化から貨車に乗せられ、シベリアのタイシェット駅で降ろされた。着いた所は驚くほどの山の中。そこに大きな建物がいくつか見えた。ドイツ兵の捕虜収容所だった建物と後で知った。

 「君たちは負けた。アメリカに占領され、帰っても、仕事もなければ家もない」。ソ連兵はそう言って労役を強いた。

 連日、アカマツを伐採した。伸びたもので30メートルあった。ノコギリを2人で交互に引いて巨木を倒した。冬は1メートルほど積もった雪を払って伐採した。銃を手にしたソ連兵が前後を監視し、余計なことはしゃべれなかった。気温が零下25度を下回る日以外、休みはなかった。「シベリア鉄道の枕木にする」とソ連兵は言っていた。

 いつ日本に帰れるのか。親、きょうだいは元気なのか。明けても暮れても帰る日のことばかり考えていた。労役も手につかないことが多かった。

 日本兵は100人以上いただろう。部屋に仕切りはなく、雑魚寝。防寒用に壁は二重になっていたが、冬も古びた毛布のようなものだけ。櫓(やぐら)でソ連兵が監視し、まるで刑務所だった。

 冬は寒いのではなく、痛いという感覚。指先が黄色になり、凍傷で指が腐っていく者が何人もいた。トイレは便が凍り、うず高くなる。つるはしでたたいて処理したことは忘れられない。

 朝は350グラムの黒パン一切れ。昼、夜はアワ、コーリャン、エン麦の雑炊だった。直視できないほど痩せ、栄養失調で死んでいく者がいた。何人かはアワを殻のまま食べ、尻詰まりになって亡くなった。百姓生まれの私は、殻が消化されず、便に出ないことを知っていた。殻のまま絶対口にしてはいけないと教えていたのだが。

 抑留生活が2年近くに及んだ47年8月、汽車で移動する日がきた。別の収容所に連れて行かれるかと不安だったが、海が見えた。こりゃ、よかった。帰れる。みんなで大喜びしたが、すぐに落胆した。バイカル湖だった。

 数日後また海が見え、日の丸を掲げた船がいた光景は一生忘れられない。ナホトカの港から京都府の舞鶴港へ着いたときの感激は今もはっきり覚えている。引き揚げ者専用の受付で300円もらい、8月24日、末吉に帰ることができた。

 飢えと極寒で、何人かは無念の最期を遂げたことが今も脳裏をかすめる。長く生きていられるのは、亡き戦友の分までと思って暮らしている。

(2012年8月4日付紙面掲載)

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