ガーガーピーピー。終戦の詔勅は電波が悪く、戦争に負けるという意味も分からず。「あっそうなんだ」が感想だった【証言 語り継ぐ戦争】

2025/09/07 18:30
中国・青島で暮らした日々を振り返る所崎平さん=いちき串木野市高見町
中国・青島で暮らした日々を振り返る所崎平さん=いちき串木野市高見町
■所崎平さん(88)鹿児島県いちき串木野市高見町

 二・二六事件のあった1936年に中国の青島で生まれ、引き揚げまで暮らした。異母兄姉を含め、10人きょうだいの5番目。父は知人の誘いで大陸に渡り、終戦前は特務機関にいたようだ。

 青島での暮らしは裕福だった。ドイツ人が建てた石造り3階建ての家に住み、1階には中国人のお手伝いさん一家が生活していた。異母兄も現地におり、落花生やあめを持って時折訪ねてきた。

 優しい人だったが、42年入営。翌秋、大陸で砲弾の破片が当たって戦死した。44年に青島で行われた葬儀の写真裏に、入隊後の略歴や「残念なるかな」と父が書き記している。葬儀後だったか、兄がよく口ずさんでいたという「青葉の笛」を戦友2人が歌ってくれた。

 青島第二国民学校に、3年生だった45年7月まで通った。日本各地から来た子どもがいて、初めて聞く方言に衝撃を受けたものだ。ロッキードなど敵機の音をレコードで聞かされたことがあったが、全て一緒に聞こえた。

 終戦の詔勅は、近くの日本人宅で聞いた。電波が悪く、ガーガーピーピーと鳴っていた。父が内容を説明してくれたが、戦争に負けるという意味が分からず、あっそうなんだと感じたくらいだ。

 終戦後は避難か収容か定かでないが、大きな円形の旅館に約4カ月滞在した。他にも日本人がおり、私たち一家には小部屋があてがわれた。窓から街の景色を眺めたり、子ども同士で遊んだりして過ごした。「女を出せ」と中国人が来た時は怖く、上階で震えていた。

 12月15日、中国にいた日本人数百人と米国の上陸用舟艇で帰国の途に着いた。18日夜に鹿児島湾に着き、翌日の最終列車で串木野へ帰ってきた。

 46年ごろ、父が36年に一時帰国して建て、伯父に貸していた家に移った。戦時中に受けた機銃掃射で天井や壁に穴は空いたが、焼けずに残っていたのは幸いだった。しかし、農地改革などで所有していた土地の大半を失い、食料難に直面した。

 当時の姉の日記には、親戚からコメや野菜を分けてもらったとある。主食がかゆなので、すぐにおなかがすく。甘い物が欲しくなると、ミツバチから蜜袋を取り出してなめた。学校に弁当を持って行けたのは、中学生になってからだった。

 帰国後は、目の前のことに必死になって生きてきた。家族や住む家を失ったといった苦労を知らない私は、「幸せ」の部類に入るだろう。

 それでも、憎しみ合う戦争ほど、ばかなことはないと感じる。どうしたらなくせるかは分からない。ただ、人種や宗教が違っても「個性」を許し合える社会でなければならない。

 戦後、青島を数回再訪したのをはじめ、さまざまな国・地域を訪れてきた。行って初めて分かることがある。研究してきた郷土史をはじめ、見知らぬものについてもっと知りたいとの関心が芽生えたのは、青島で過ごした日々があったからだろう。

(2025年9月5日付紙面掲載)

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