部屋に積み上がる遺体、体重は30キロに…極寒のシベリア、死の淵から救ってくれたソ連の女性医師の優しさは100歳になった今も覚えている【証言 語り継ぐ戦争】

2025/09/13 17:03
シベリア抑留を経験した谷口福雄さん=指宿市西方
シベリア抑留を経験した谷口福雄さん=指宿市西方
■谷口 福雄さん(100)鹿児島県指宿市西方
 1924(大正13)年、西志布志村(現志布志市)で10人きょうだいの2番目として生まれた。志布志の青年学校に通っている時、満州(現中国東北部)の南満州鉄道(満鉄)で働き手を募集していると聞き、大陸へ。経理の仕事をしながら、夜間に合間を縫って勉強もした。

 やがて戦争が激しくなると、私の元にも召集令状が届いた。当時は「日本が勝つためならば、できることは何でもしよう」と勇ましい気持ちだった。ソ連との国境近くに配属され、先発隊として大砲を撃つ角度や距離を測量する任務などに従事した。だが間もなく終戦を迎えて武装解除となり、捕虜としてシベリアのコムソモリスクへ連れて行かれた。

 そこは冬は零下60度にもなる地域で、北極かと思うほど寒かった。日本人は狭い部屋に押し込められ、材木の伐採などの重労働をさせられた。食べ物はごくわずかで、一つのパンを10人くらいで分けて食べたこともある。着替える服もなく、毎日多くの日本人が栄養不足や病気で命を落とした。隣に寝ていた人が、翌朝に亡くなっていたこともあった。冬場は遺体が部屋の一角に積み上げられ、春を待って埋葬された。

 抑留から約2年がたつころ、身長170センチ超に対して体重は30キロ台まで落ち、歩くこともままならなくなった。病気にかかり、現地の病院に入れられた。そこでは敵も味方も関係なく、同じ人間として診てもらえたのが印象的だった。ロシア人の女性医師が、毎日体調を気にかけてくれたのを覚えている。

 その後、他の人よりも早く日本に帰れることになり、港で迎えの船を待った。日本の旗を掲げて近づいてくるのを見て、思わず涙がこぼれた。これで命が永らえたのだと実感した。帰国後も、歩けるようになるまでしばらくかかった。

 西志布志村に帰ってからは、経理の経験を生かしてさまざまな会社や役場で勤務した。指宿に移り住み、ホテルで約40年間働いた。だが抑留生活による体への負担は大きかった。結核など大きな病を何度も患い、入退院を繰り返した。

 幾度も死の淵に立ったことで、年を取ってから特に健康に気を使うようになった。規則正しい生活と運動を心がけ、毎朝30分から1時間の散歩は今も続ける。頭の体操のため、新聞を読んで南風録や気になった記事をパソコンで入力するのも日課の一つ。長女の運転でドライブをするのも楽しみだ。

 この年齢になって、周囲から「元気ですごい」と言われるのがうれしい。こんな日が訪れるとは考えもしなかった。今は本当に幸せで、生きていて良かったと思う。だからこそ、戦争は絶対にしてはいけない。同じ人間なのだから、何でも話し合いで解決できるはずだ。この先、誰にも自分と同じような大変な思いをしてほしくない。

(2025年9月13日付紙面掲載)

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