戦時中。子宝婦人を表彰していた…条件は「同じ両親で10人以上」――「生めよ殖やせよ」人口政策示す資料 霧島市横川

2025/09/21 11:22
10人の子どもを育てた山下サエさんに贈られた表彰状=霧島市横川町中ノ
10人の子どもを育てた山下サエさんに贈られた表彰状=霧島市横川町中ノ
 日中戦争さなかの1940年ごろ、「生めよ殖やせよ国のため」のスローガンの下、多くの子どもを産み育てる家庭を表彰する動きが全国的にあった。鹿児島県霧島市横川町中ノの山下弘文さん(78)宅には、10人の子どもを育てた山下さんの祖母・サエさんが、旧横川村などから受け取った賞状が今も残る。

 賞状は39年7~11月に旧横川村、姶良郡衛生組合連合会、愛国婦人会鹿児島県支部からそれぞれ贈られた。横川村は「多数ノ健康兒ヲ生育シ人的資源ノ涵養上寄與スル所眞ニ大ナルヲ認ム」とたたえた。

 当時の新聞にも記録が残る。39年8月3日付の鹿児島新聞朝刊は、「子寳婦人表彰式」の見出しで、横川村で「人的資源即ち國の寳生めよ殖やせよの線に従ひ十人以上健康兒を生育せる子福(※原文は「示」に福のつくり)婦人」の表彰式を開いたと報じた。サエさんを含め表彰された21人の名簿と子どもの人数を記載。最も多い人は13人だった。

 新聞には同じ時期に旧志布志町や旧加治木町、旧求名村など県内各地の自治体の受賞者名簿も掲載されている。国も「同じ両親で満6歳以上の子どもを10人以上自ら育てている」といった条件を設け、「優良多子家庭」として40年に表彰を始めた。

 こうした当時の人口政策について、鹿児島大学の佐藤宏之教授(49)は「表彰により子どもが多いことが模範であると示したイデオロギー政策だった」と解説する。

 一方で「本来、結婚するかしないか、子どもを産むか産まないかは個人の自由なはず。女性の生き方を制限するような政策だった」と指摘。現代にも同じような問題はあるとして「個人の選択に国がどこまで干渉すべきなのか、考えるきっかけになる資料だ」と話した。

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