中国での戦闘体験などを語る永田健太郎さん。左手前は出征の際にそろえた将校行李(こうり)=長島町平尾
■永田健太郎さん(95)長島町平尾
鹿児島一中(現・鶴丸高校)から、京都にあった大日本武徳会武道専門学校(武専)の剣道科に進み、23歳で卒業した。「どうせ戦争で死ぬのだから、先生にはならない」と言っていたが、武専の校長に説得され、兵庫県赤穂の旧制中学で1年だけ剣道を教えた。
1940(昭和15)年春、鹿児島の歩兵45連隊に入隊。幹部候補生試験に甲種合格し、熊本の教導学校で学んだ後、見習い士官として45連隊に戻った。少尉となり、41年の暮れか42年初めの冬に、別の連隊の要員として1人で中支(華中)へ出征。地名は定かでないが、山中の陣地を守る中隊の小隊長を務めた。われわれには作戦の詳細は知らされていなかった。
ある暑い日、昼食をとっていたら突然、中国軍と戦闘が始まった。退却するところを背後から狙われたようだ。約50人ずつの3小隊のうち、最後方の小隊の軽機関銃手が撃たれ死亡した。初年兵だった。中隊長の命令で反撃を始めた。
コウリャン畑で敵の姿は見えない。中段にいた私の小隊に、手りゅう弾のような弾を400メートル飛ばせる擲(てき)弾筒を使うよう命じた。6発撃つと敵の攻撃がやんだ。実戦で使うのは初めてだったが、効果があったのだと思う。そのまま双方とも退却した。
戦闘中、「永田少尉、頭が高い」と怒鳴られた。呼び方から考えると、中隊長だろう。ベルトには銃弾か何かが当たったが、けがはなかった。初めての戦闘で興奮していたせいもあり、死の恐怖は感じなかった。
この戦闘からしばらくして交代要員が来て、戦地経験は1年ほどで終わった。中国から戻ると結婚した。またすぐに出征しなければならないと思っていたからだが、その機会はなかった。終戦までの大半、熊本の予備士官学校で教官として教練や精神教育に当たった。
戦局が悪化し、予備士官学校からも特攻隊員候補として航空兵を出さなければならなくなった。滋賀の彦根高等商業学校を出た22歳の清水義雄という生徒を推薦した。成績優秀だったからだ。
特攻隊員に決まった清水とその同輩が知覧の飛行場へ飛び立つ前日、家を訪ねてきた。焼酎を飲みながら、清水は「少尉殿、死ぬことは決まっていますが、グラマン(米軍機)に食われんよう祈っとってください」と言った。何とか米艦への体当たりを成功させたいと念願していた。
その夜、2人はよく寝た。明日死ぬかもしれないのに命に未練はないのか。同じ人間とは思えなかった。私と妻は一睡もできなかった。私が推薦さえしなければと断腸の思いだった。一方の清水たちは選ばれたことを誇りに思っていたのではないか。教育のせいだ。
翌日、2人の乗る練習機2機が家の上空に飛来し、旋回した。屋根の上で日の丸を振ると、翼を振って飛び去った。
清水は45年4月に出撃、戦死した。終戦後、親御さんに会おうとしたが、拒まれた。無理もない。振り返れば、飛行機乗りになれなんてよく言えたものだ。推薦したことを今も後悔している。
戦地から予備士官学校に戻されたのは、剣道をしていたからだった。生があるのは剣道のおかげだ。
=敬称略
(2012年8月13日付紙面掲載)