中国人の投げた石でけがをした頭部をなでる久保敏憲さん=10日、鹿児島市田上6丁目
■久保敏憲さん(88)鹿児島市田上6丁目
1937(昭和12)年4月、満州(現中国東北部)の大石橋にあった宣武街という地区で生まれ育った。父周四は薩摩川内市甑島、母テツは姶良市重富の出身で、私は3男1女の長男だった。
父は南満州鉄道(満鉄)で車両の検査担当として働き、生活に不自由は感じなかった。歴史好きの母に連れられ、満鉄職員の家族に与えられた特別乗車券を使い、あちこち旅行に連れていってもらった。
太平洋戦争が始まっても実感は湧かなかった。たまにグラマンが飛ぶ様子を見かけるくらい。ラジオや新聞で知る戦況は、常に「勝利」の話題だった。「日本は1等国民」「日本は強い」とすり込まれていた。
しかし、終戦で状況が一変した。当時は国民学校2年生。ラジオを置く私の家に15人ほどの大人が集まって玉音放送を聞いた。泣きだしたり、うずくまって畳をたたいたり。当時は意味が分からず、率直に「何があったのか」と思った。
それから日本人の立場は逆転した。中国人に追い回され、石を投げられた。頭に当たって出血した傷は今も痕が残っている。
ただ、父だけは違った。職場の部下の中国人は「日ごろから丁寧にしてもらった。恩返ししたい」と言った。中国人街に招待され、アヒルの卵や野菜をもらったことをよく覚えている。
ソ連軍の南下が始まり、大石橋駅周辺の警察署や公共施設が軍隊の宿舎に使われた。ソ連軍の隊長は金時計を何個もほしがり、父の時計も寄付させられた。兵士による女性暴行も多く、若い女性は髪を短く切り、男装して外出していた。
私の家は女性の避難所として使われた。満鉄職員の家にソ連兵が押し入らないよう、玄関に職員の証明書が貼られていたからだ。ソ連まで物資を運ぶ役割があると、身分が優遇されていた。いざという時に天井裏へ逃げる階段も造ったが、ソ連兵が立ち入ることはなかった。
ソ連軍が引き揚げると、毛沢東と蒋介石の内戦が激しくなった。毛沢東の軍は小さな百貨店を軍隊宿舎にした。子供には優しく、遊びにも行けた。ある日、隊長から「両親と妹が日本兵に殺された」「今使う銃は日本兵のもの」と話しかけられた。「女性と子供には絶対に手を出さない」と言ったことも印象深い。
別の日、女性に手を出したらしい兵隊が、アンズの木につるされ、一晩中棒でたたかれている光景が目に焼き付いている。
市街戦も激化した。家はレンガ造りの二重窓だったが、窓ガラスに畳を立てて流れ弾を防いだ。今でも迫撃砲の「シュルシュルシュル、ドン」という音が耳に残っている。
終戦翌年の6月中旬、日本への引き揚げ通知があった。父はこの時、終戦5日前に生まれた三男を中国人に預けるよう提案した。家族のことを考えてのことだが、母は断固反対し「死ぬときは一緒だ」と言い切った。母が布団袋で作ったリュックサックは大きく、身長1メートル70センチの父が背負っても、ひざから下しか見えない。中には三男が使うための大量のおむつが入っていて、愛の深さを感じた。
船で博多港にたどり着くと「やっと日本だ」と感激した。その後、父の古里である甑島に移り住んだ。中学卒業と同時に鹿児島市へ引っ越し、大学卒業後は小、中学校の教員として働いた。
教え子たちに満州の経験を語る機会はほとんどなかったが、「戦争は人を殺すことだから絶対に許されない」とは伝えてきた。人がいる限り争いが起き、平和を生み出すのは難しいのかもしれない。それでも戦後80年がたち、当時の情景を語ることで何か伝わってほしいという思いでいる。
(2025年10月9日付紙面掲載)