入植記念碑に手を添える宇都岩重さん=中種子町増田
■宇都岩重さん(86)中種子町野間
太平洋戦争開戦から間もない1941(昭和16)年12月13日、海軍航空本部から中種子町役場に「中種子町増田牛野原(牛之原)地区が飛行場基地として決定された」との公文が届いた。
翌42年1月、牛之原と小塩屋、私の家族が暮らしていた戸畑の3集落計約40戸に対し、移転命令が出た。当時17歳だった。同年8月に建設が始まり、山を削り谷を埋める突貫工事。のどかな故郷は原形をとどめず、見る見るうちに全面要塞(ようさい)と化していった。
まず最初に徴用工員用宿舎が立ち並んだ。種子島内はもちろん朝鮮半島からも動員され、数千人規模だったと思う。朝鮮人労働者が昼夜の区別なく造成した軍用道路が戦後、県道75号になった。滑走路は、軍用道路と現在の宇宙航空研究開発機構増田通信所を交差する形で、太平洋へ向かって東西方向に延びていた。
着工から約1年半、川の水を兵舎まで引くパイプ敷設に従事した。臨時雇い的な立場だったのでずっと続けるわけにはいかなかったが、実家の田畑が買収されたので生活の糧がない。そのため44年3月、職業軍人を志し佐世保海兵団に入った。
しかしすぐに後悔した。フィリピン・レイテ沖やミッドウエー海戦を経験した教官ははっきり言わなかったが、内部の雰囲気で負け戦だとはっきり分かった。ちょうちん行列で勝ったと喜んだのは何だったのか。だまされた、志願しなければよかったと悔やんだ。
佐世保で半年学んだ後、予科練の生徒に飛行機の操縦法を教えるため、出水、串良や鹿屋などの新設部隊を転々とした。まるで弟のような2、3歳年下の特攻隊員が次々と飛び立ち、戻ってこなかった。「お国のために死ね」。教育とは本当に恐ろしい。当時それが当たり前だった。絶対に繰り返してはならない。
鹿屋で終戦を迎えて復員。種子島基地とその周辺は、米軍機の機銃掃射や爆撃で見る影もなかった。芝の滑走路には爆弾による穴が至る所に残っていた。攻撃を受けるたびに穴を埋める作業に駆り出されて大変だった、と父から聞いたものだ。
敗戦後しばらくすると、軍用地一帯を耕地に戻す開拓工事が始まった。強制移転させられた住民や引き揚げ者ら約20戸が47年、農林省(当時)公認の帰農者として入植。入植者でつくった増田帰農組合が49年10月、入植記念碑を立てた。
「開拓作業に幾多の苦難と辛酸を嘗(な)め克(よ)く乏しきに堪へ(一部抜粋)」。記念碑の碑文にあるように、戦前のような耕地に戻すのは並大抵の苦労ではなく、長い時間がかかった。
パワーショベルやダンプカー、耕運機など便利な道具はない。芝を取り除き、ツルハシや鍬(くわ)をふるい、馬ですいた。土中にコンクリートや岩が埋まっているから深耕できず、土地はやせたまま。サトウキビやでんぷん用カンショを栽培できるようになるまで約10年かかった。
地域住民は国のため、先祖代々の住み慣れた土地を強制的に取り上げられた。敗戦後に返してもらったとはいえ、破壊された基地を再び耕地に戻すのは大変だった。国、戦争に翻弄(ほんろう)され続けたと思う。戦前の増田地区を知る人は今やほとんどいない。
(2012年8月25日付紙面掲載)