「ヒコーキ代議士」が地域浮揚を願って誘致した「鹿屋海軍航空隊」。最も多くの特攻兵が出撃した。今も鹿屋基地として南西防衛の要衝を担う

2025/11/04 12:00
一般道路とフェンスを隔てた海上自衛隊鹿屋航空基地で離着陸訓練を繰り返すP1哨戒機=10月24日午後6時、鹿屋市
一般道路とフェンスを隔てた海上自衛隊鹿屋航空基地で離着陸訓練を繰り返すP1哨戒機=10月24日午後6時、鹿屋市
 鹿屋市にかつて「ヒコーキ代議士」と呼ばれた政治家がいた。1910年代から60年代まで県議会議員や衆議院議員、市長を務めた永田良吉だ。地域浮揚策として軍隊の誘致活動に熱意を注ぎ、実現したのが1936(昭和11)年の鹿屋海軍航空隊開隊だった。鹿屋基地はアジア・太平洋戦争のほぼ全期間を通して重要な軍事的役割を果たし、末期には特攻機の最大の出撃拠点になった。現在は海上自衛隊航空基地として南西防衛の要衝を担う。基地の街では昔も今も、守ってもらえる安心感や経済波及効果への期待と、安心安全への懸念が入り交じる。

 陸海軍の航空特攻で、最も多くの隊員が出撃したのは鹿屋基地だ。1945(昭和20)年3月以降、全国から集まった908人の若者が十死零生の任務に殉じた。海自鹿屋航空基地正門前にある史料館には特攻隊員の遺影、遺書が並ぶ。展示の主役は軍人だが、1階ロビーに肖像画が飾られているのは民間人の永田良吉だ。「鹿屋航空基地生みの親」と紹介が添えられる。

 1886(明治19)年に肝付郡大姶良村(現鹿屋市)の地主の家に生まれ、1913(大正2)年に大姶良村議に初当選、17年に30歳で村長になった。

■新しい時代を確信

 この年の8月、鹿児島日報社(南日本新聞社の前身)主催の「アート・スミス氏飛行大会」が鹿児島市天保山で開かれた。スミス氏は当時、世界に名の知られた米国人パイロット。各地で曲芸飛行を披露し、「鳥人スミス」として話題を呼んでいた。天保山でも「カーチス式百馬力飛行機」で宙返りや横転を披露した(17年8月8日付「鹿児島新聞」)。

 草創期の飛行機を見た永田は、新しい時代の到来を確信した。母親が子馬を売って捻出した旅費で埼玉県の所沢飛行場を見学し、資料を集めて航空関係の知識吸収に熱中した。

 19年に県議、28(昭和3)年には衆院議員に初当選。一貫して取り組んだのが、鹿屋への飛行場誘致だ。

 永田は加治木中学校(現加治木高校)卒業後に「一年志願兵」として陸軍の教育を受け、その後も召集を受けて最終的には砲兵中尉になっている。経歴や時代背景を考えれば、兵器として飛行機の有用性に着目したのは確かだろう。

 一方で「飛行機の本来の使命とは、お客や郵便物を運んで人類の幸福を増すことである」といった言葉も残している(「評伝永田良吉」大場昇)。大隅半島の地理的ハンディを払拭できる交通、物流手段として捉えていたのもまた間違いなさそうだ。

■精魂も私財も注ぐ

 永田は大隅半島で陸軍の演習があれば連隊長や師団長に、志布志湾に軍艦が入れば司令官に会って航空機の将来性を説き、鹿屋への飛行場建設を働きかけた。東京でも軍の要人に面会を重ねて要請した。都城市出身の上原勇作元帥には「あまりにしつこく来てもらっては困る」とたしなめられ、「もう閣下には頼んもはんで」とやり返した(「永田良吉伝」永田良吉伝刊行同志会編著)。

 陸軍航空隊員200人を鹿屋に案内し、山を売った金で接待したこともあったという。精魂を傾け、私財を投じたなりふり構わぬ誘致は36年4月1日、「鹿屋海軍航空隊」開隊で実を結んだ。

 36年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに、日中戦争が泥沼化していく時期だ。鹿屋の陸上攻撃機部隊は、37年には台湾の台北に進出して中国軍拠点への渡洋爆撃を敢行。38年からは中国国民政府の臨時首都・重慶への戦略爆撃に加わった。

 41年の真珠湾攻撃に先立って、鹿屋基地は作戦立案の拠点となった。45年春に沖縄戦が始まると、爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする特攻が本格化する。基地には米軍機の空爆や機銃掃射が繰り返され、市民の犠牲者が相次いだ。

■裏切られた気持ち

 永田は43年11月に衆院議員と兼任で鹿屋市長になった。鹿屋市文化財センター所蔵の45年の日記には鹿屋に司令部を置いた第5航空艦隊司令長官・宇垣纏(まとめ)の名や「菊水」など特攻作戦に関わる用語が散見される。軍事機密の出撃予定もある程度知らされていたようだ。隊員に「ニワトリ300羽」「はちみつ一升」「手打ちそば」といった自家製の差し入れをこまめに続けた。

 だが、この海軍への信頼や親愛の情は、終戦を機に一転する。45年8月14日のポツダム宣言受諾を受けて20日、鹿屋航空隊にも解散命令が出た。約2万人いた隊員は、先を争うように故郷に引き揚げた。無秩序な復員を目の当たりにした市民に動揺が広がった。

 28日、二十数人の新聞記者らが鹿屋入りした。その中の一人、上野文雄さんが永田の言葉を著書「終戦秘録 九州8月15日」に記している。「敗戦なら敗戦でも仕方がないのですが、あのぶざまな海軍航空隊の最後の姿は何ですか」「ほれた女に裏切られた気持ちです」

 司令部の将校を市役所に呼んだ永田が「最後まで市民を守る任務の軍人が、逃げ帰るとは何事か」と詰問したとも伝わる。

 軍としては、進駐してくる米軍との万一の衝突を避けるため、早々に将兵を撤収したに過ぎない。それが永田の目には、市民の恐怖や不安に無関心な姿に映った。敗戦とともに露呈した軍の論理と市民感情の深い溝だった。

■胸の奥には常に「戦争の傷」

 永田良吉は1945(昭和20)年9月3日に鹿屋市に進駐してきた米軍との交渉の前面に立ち、市民の混乱収拾に努めた。5年間の公職追放の後、再び衆院議員や鹿屋市長を務め、71年に死去した。戦前、戦中、戦後を通して常に地域振興のアイデアを温め、実現に汗を流した人物として語り継がれる。

 でんぷん工場の誘致を画策して適地がなければ永田家の土地を提供した。県議会で養蚕立県論を展開し、養蚕試験場や乾繭(かんけん)倉庫を地元に誘致した。国立ハンセン病療養施設「星塚敬愛園」も引き受けた。

 孫の朝倉悦郎さん(77)=鹿屋市吾平町麓=は10年ほど前、倉庫で永田の手記を見つけた。市長を務めていた59年に書いたらしい。

 巻末のページに「私は負け戦をすると知らずに、東條さんの宣戦布告に両手を上げて賛成した大馬鹿者です」とあった。「罪滅ぼしとして人のためにならなければ申し訳ない」と決意を記したかと思えば、「これも間違いでしょうか、教えてください」と自信の揺らぎもうかがえた。

 誰にともなく切々と語りかけるような心情の吐露に、朝倉さんは驚いたという。鹿児島弁の演説が人気で聴衆をよく笑わせていたという政治家だが、胸の奥に刻まれた戦争の傷から解放されることはなかったのだろう。

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >