診療にあたる“副業・獣医師”の会社員、能美君人さん
現在、家庭で飼育される犬猫は計1,596万匹。今や15歳未満の子どもを上回るほどで、日本は“ペット大国”といえる。それに伴い、動物病院の数も増加。ペットは自由診療となるだけに高額化しやすく、「獣医はさぞかし儲かっているのでは?」と考える人も多いだろう。だが実際は、小動物獣医業界には様々な課題があるという。ロート製薬の社員でありながら、“副業・獣医師”として働く能美君人さんが語る実情とは? また、その課題感から生まれた犬用スキンケアについても聞いた。
【写真】獣医師姿からチェンジ!ロート製薬社員でもある能美さん
■医療費は人間以上に高いのに、なぜ? 動物病院の苦しい実情
愛犬や愛猫の健康のために欠かせない動物病院。しかし、飼い主にとって頭が痛い問題が、医療費が高いことだ。人間とは違って公的な医療保険制度がないために、費用は全額自己負担。物価高騰や寿命が長くなったことを考えると、さらに今後も医療費は上がっていくことが予想される。
日常的な傷病だけでなく、大きな手術には1回で30万円以上かかることも。筆者の愛猫も心臓・腎臓の病を疑われ、血液検査に尿検査、エコー検査などで3万円、歯槽膿漏で3本抜歯手術を受け、検査も含めて6万円かかった。かわいい愛猫のためならば仕方ないと思いつつ、正直、獣医師は儲かる商売だなと思っていた。
ところが「実情はまったく違う」と語るのは、獣医学部卒業後、動物病院に勤務した能美君人さん。
「15年ほど前、新卒で入った病院では、過重な労働や十分とは言えない環境に直面することもあって。今でも新卒の平均年収は400万円前後とされますが、当時はそれよりも低く、生活面でも厳しい状況でした。 動物が好きで獣医師になる人が多いですが、過酷な労働環境に加え、人間の病院より死に遭遇する頻度も多い。精神的、経済的、体力的にもキツイために、僕の同級生にもメンタルを崩してしまう人がいました。当時、新卒1年目の獣医師の離職率は6割を超えていました」
診療費が高いのに、なぜ、このような環境になっているのか? 要因の一つとして挙げられるのが、設備投資だと言う。
「受診時にはすでに重症化していることが多く、外注だと検査結果を待つ間に症状が進行してしまう場合がある。そのため、病院の中で完結できるように血液検査や尿検査、さらにはレントゲン、エコー、最近ではCTと設備を揃えているところもあり、外注に頼らず院内で完結できる体制づくりに投資する病院も増えています。 そうすると初期投資が非常に高額になり、当然その維持費も必要になるのです」
さらに人間の病院に比べ、人件費もかかる。
「動物が動かないようホールドするなど、診療補助をする看護師が必要。受付や事務対応も含め、人手が必要な場面が多くあります。さらに、院内で薬剤の準備や処方まで行うケースも多く、細やかな作業が求められます」
■専門医や大学でも晴れないモヤモヤ、「後輩や自分の子どもに心から勧められる職業なのだろうか」
能美さんはなんとかこの環境を変えたいと、3年目に専門診療の分野への転職を決意。今でこそ皮膚科や歯科、腫瘍科など、専門医による診療を提供する動物病院は増えているが、当時はまだ一般的ではない中、「専門診療で医療のレベルを上げれば、業界が少しずつでも良くなるのではないか」と考えてのことだった。
学生時代の研究室での知識を生かし、眼科専門の動物病院で働き始めたものの、「学べることは多いけれど、誰でも飛び込める世界ではない」と実感。「そもそも臨床獣医師は、大学の後輩や自分の子どもに心から勧められる職業なのだろうか」「学生のうちに現実を理解できるチャンスがあれば、少しは変わるのではないか」と考えを方向転換、大学教員になるべく大学院の医学系研究科眼科科学教室に進学した。
その一方で、やはり「動物の業界のために貢献したい」という思いは消えなかった。「自分の中で業界の課題感を風化させないよう、臨床現場に立ち続ける必要がある」と、土日は動物病院で獣医として働くダブルジョブ生活をスタート。卒業して特任研究員になってからも続けたものの、次第に「研究と獣医療の仕事が直接つながっていないことにモヤモヤを抱えるようになった」という。
そんなときに出会ったのが、研究室に出向していたロート製薬の社員たちだった。それまで一般企業で働くことなどまったく頭になかった能美さんだが、「こういう人たちと働いてみたい」と転職を決意したという。
ここで特筆すべきは、ロート製薬の副業・兼業への考え方だ。近年、ダブルジョブ制度を導入する企業は増えているが、本音では長時間労働によるパフォーマンス低下や情報漏洩等の懸念が払拭できず、積極的には認めたくないという企業も多い。しかし同社では、「獣医診療を続けたい」という能美さんに対し、「むしろやめないでほしい」と依頼。「“他の領域からの知見や経験が本業に生きる”というのが根底にある考え方ですが、ほんまにロートは副業を推奨してんねんなと、正直驚いた」と能美さんは振り返る。
そして、研究開発者として入社して1年。モノづくりへのこだわりや、ヘルスケアを通じた社会貢献、ウェルビーイング社会の実現を目指す…という理念に共鳴した能美さんは、「この考え方を獣医業界にも知ってもらいたいし、こういう会社が参入すればきっと業界が良くなる」と確信。同社会長に動物に関わる新規事業の立ち上げを提案したところ、なんと「ほなやってみ」のひと言で許可が下りた。
こうして誕生したのが、ロート製薬初の動物ブランド『Anitto(アニット)』だった。
■家の中で飼育する現代ならでは、柴犬、トイプー…犬のアトピーが増加中
犬のスキンケアに着目したのは、犬の皮膚疾患、中でもアトピー性皮膚炎が非常に多いことから。
「アトピーは再発、慢性化しやすい疾患です。人間と同様に、スキンケアをすることで症状が和らいだり、薬の量を減らせたり、再発がしにくくなることは専門の先生から聞いていました。ただ、動物ではそもそもスキンケアの習慣がないし、予防や未病に関するエビデンスも少ない。それなら、ロートの知見・強みを生かして取り組みたいと考えました」
人間と同様、ある程度雑多な環境にいないと免疫力は落ちてしまう。昔と違って清潔な家の中に暮らすことで犬にもアトピーが増えており、飼い主が気づくことも多くなった。日本でよくみかける犬種では、とくに柴犬やトイプードル、シーズー、マルチーズに多いそうだ。
こうして生まれたアニット・スキンケアシリーズは、ヒトのスキンケア研究に基づくオリジナル成分を配合し、体の内と外からうるおいと菌バランスを整え、皮膚のバリア機能を維持するのが特徴。洗浄剤、保湿剤、保湿乳液、サプリメントがあるが、ヒト用スキンケア製品のノウハウを生かした丸いヘッド(保湿乳液)、実際の使用を想定し逆さ向きでも使えるスプレー(保湿剤)には、能美さんも感激したという。もちろん、どの製品もヒトと同じ管理体制で製造されている。
冒頭で述べたとおり、動物の医療費は高く、病院では人間の3~4倍かかることも珍しくない。「未病のアプローチがもっと増えれば、重症化する前に対応できる」と能美さん。「皮膚に限らず、早めのケアは重要。例えば眼病は気づきにくく、知らない間に片目が失明してしまったということも珍しくありません。病院を受診しても、すでに手遅れということもある」と警笛を鳴らす。
そんな思いから、現在は再生医療などロート製薬のアセットを活用した、動物と飼い主が笑顔で健やかに過ごせるための製品・サービスの開発を次々と着手。さらに、「動物と人への相互の価値提供も大切にしている」と力を込める。「スキンケアをしてあげることで犬は撫でられてうれしく、それを見た飼い主さんもうれしい。犬の皮膚が健康になれば、犬も人も喜んでくれるでしょう」
実は、日本のペット関連市場は1.9兆円程度。大きな利益が期待できないことから、参入しても撤退してしまう大手企業が多かったという。それでもロート製薬が踏み出したのは、「数字だけではない価値を見出しているから」。短期的な利益ではなく、家族の一員である動物の健康とQOLに貢献し、動物も飼い主もウェルビーイングな状態を目指したい。そうして踏み出した一歩は、長期的な視野に立った太っ腹な決断と言えるだろう。
同社の参入は業界からの期待も大きく、「ロート製薬のような会社が入ってきてくれて嬉しい」という声を能美さんも各方面から聞いている。しかも、現場を知る獣医師が手掛けているとなればなおさらだ。
一方、現在では獣医師を取り巻く環境も改善しつつあるという。世代交代が行われ、経営を知る企業やコンサルタントが動物病院の事業を承継するケースも増加。一見、企業が参入すると利益追求ばかりに走りそうな気もするが、ロート製薬の例を見れば、悪いことではないのだろう。
「獣医師がベストパフォーマンスを出せなくて、一番影響を受けるのは動物と飼い主。私たちも少しでも支えられる取り組みができたらと考えています」
■新規事業立ち上げ後も続ける副業、ロート製薬でも新たな働き方が誕生
ところで、ロート製薬で新規事業を立ち上げた能美さんは、もう副業はやめたのだろうか?
「いいえ。土曜日はフリーランスで眼科専門の診療科と一般診療科の掛け持ちをしています。正直、肉体的には疲れを感じる年齢になってきたんですけど、自分がやりたいことと仕事が直結しているので、今はめちゃくちゃ幸せです」
ちなみに、能美さんらの実践を生かし、同社では10月より「ビヨンド勤務」なる制度が誕生したそうだ。週3日または4日勤務とし、残りの日を副業や学び、社会活動に充てられる働き方で、社員の挑戦や成長を後押しする取り組みだという。もしかしたらここから、また気になる事業が生まれてくるかもしれない。きっとそれは、私たち生活者にも歓迎すべきものになるのだろう。
動物を家族に持つ人間にとってなんとも心強い、“副業・獣医師”として働く能美さんの奮闘とロート製薬の理解。その挑戦と、ペット大国・日本で尽力するすべての“動物のお医者さん”にエールを送りたい。
(文:河上いつ子)