青山惠先さん
台湾で1947年、当時の国民党政権が住民を武力弾圧した「2.28事件」には日本人犠牲がいた。与論町出身で、外国人初の賠償が台湾政府に認められた青山惠先(えさき)さん。長男惠昭(けいしょう)さん(78)=沖縄県浦添市=は昨年、認定に至るまでの闘争や家族の歩みをまとめた著書「蓬莱の海へ 台湾二・二八事件 失踪した父と家族の軌跡」を出版した。「平和と人権の大切さを後世に伝え残したい」と話す。
13歳で与論島を離れた惠先さんは、鹿児島県本土での年季奉公などを経て、27歳で日本の植民地だった台湾に渡った。結婚後、生後間もない惠昭さんと妻を残して30代半ばで戦地へ。ベトナムで終戦となり、いったんは鹿児島に引き揚げたが、連絡の取れない家族を捜しにヤミ船で台湾へ戻ったところ、事件に巻き込まれ殺害されたとみられる。38歳だった。
惠昭さんたちは約2カ月前の46年末に引き揚げたばかりで、すれ違いだった。「家族の人生は戦争に狂わされた。母には遺族年金などもなく、生涯戦争を憎み悔しがった」と明かす。
国民党の独裁政権下、事件そのものが長くタブー視されたこともあり、惠先さんの死に際の詳しいことは半世紀近く分かっていなかった。民主化へ向け87年に戒厳令が解除された後、惠昭さんは父の失踪宣告手続きに着手。当時を知る親族らへの聞き取りや資料探しを重ね、徐々に足取りをつかんだ。
2007年に戦後初めて台湾へ。13年、当局に犠牲者認定と賠償請求を申請した。却下が続いたが、16年に裁判で勝訴。正式に犠牲者として認められた。
認定までの壁になったのが、台湾人の元従軍慰安婦や元日本兵に対する戦後補償問題だった。惠昭さんは「日本政府の理不尽な対応で台湾の方々はとても悔しい思いをしている。台湾当局からも『人権に国境はなく、平等互恵の原則で日本政府は不平等な補償を考え直してほしい。日本で伝えて』と託された」と語る。
使命感から「蓬莱の海へ-」(ボーダーインク)を昨年9月に出版。惠先さんのように事件に巻き込まれ、身元が判明していない日本人の遺族探しを今も続けている。「事件はまだ終わっていない」と訴える。
奄美群島の日本復帰後、沖縄が復帰するまでは、与論島と沖縄本島の間の北緯27度線が“国境”だった。著書では、奄美群島出身者が「非琉球人」と差別された当時も振り返る。5月15日で沖縄の復帰50年。「鹿児島から台湾にかけての琉球弧で軍事基地化が進むのはとても心配。戦争直前のような事態だ。民意を無視する政府のやり方は残念で仕方ないが、平和と民主主義を求める気持ちを諦めてはいけない」と話した。