若宮さんのきょうだい。左から次姉・文子さん(13)、耕三さん(2)、次兄・孝さん(9)(若宮耕三さん提供、1944年ごろ撮影)
■若宮耕三さん(80)鹿児島県日置市吹上町入来
1942(昭和17)年7月生まれの私は、終戦のとき満3歳だった。空襲で家を失った私たち家族5人は、国鉄の鹿児島駅から600メートルほど離れた鹿児島市清水町の廃屋で暮らしていた。
近くの日豊線沿いの崖には、国鉄が管理する防空壕(ごう)があった。空襲警報が鳴ると、母は私を帯で背中にくくりつけてそこへ避難した。家族が慌てる姿が面白かったのか、私はいつもはしゃいでいたという。
国鉄職員だった父によると、防空壕は駅が攻撃を受けた際、列車を緊急停止させ乗客を避難させるためのもので、線路に沿って数カ所の入り口が開いていた。
奥行きは50メートルほど。200人は収容できた。裸電球が点々とつるされており、灯火管制で真っ暗だった街に比べて明るくて、入るとほっとした。夜間空襲のときなど人々はござを敷き、壁側に頭を並べて横になっていた。
中央に通信室があり、ヘッドホン型のレシーバーをはめた、若い女性の姿が見えた。壕内の人々のざわめきや、消毒液を薄めたようなシラス土壌特有のにおいを、今でもはっきりと思い出せる。
45年7月27日の昼ごろ鹿児島駅周辺は突然、米軍機の爆撃を受けた。母は私を背負う間もなく、抱きかかえて防空壕に逃げ込んだ。その瞬間、青白い閃光(せんこう)が走り、爆発音と爆風が防空壕を揺るがせた。いわゆる上町空襲で、「鹿児島市戦災復興誌」によると、駅周辺の死者は420人に上った。
夜中過ぎになって父が無事に帰ってきたときには、心配していたすぐ上の姉は泣きながら抱きついたという。この衝撃の日以降、私の記憶はしばらく吹き飛んでいる。
兄たちの話では空襲警報にひどくおびえるようになり、防空頭巾を手放さなくなった。私の姿が見えなくなり捜しに行くと、防空壕で膝を抱えて震えていたこともあったという。夜中に突然泣き出して部屋中を走り回るなど、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が出ていたようだ。
今でも夜半にサイレンの音が聞こえると、空襲の光景がよみがえり動悸(どうき)が激しくなる。テレビに映し出される、ロシアに侵攻されたウクライナの映像では、恐怖と飢えに打ちひしがれる子どもたちの姿に、あの日の自分を重ねてしまう。戦争は常に弱い立場の者に犠牲を強いるのだ。
戦後、戦地から長兄や従軍看護婦だった長姉が帰ってきた。台湾から引き揚げてきた叔父家族らを含め、十数人が6畳2間に肩を寄せて暮らした。食料不足も深刻で、数年間はひもじく苦しい生活が続いた。
私をいつも守ってくれた明治生まれの母は、盆や正月に集まった孫たちに、よく戦時中や戦後の苦労話を聞かせていた。「あんなぁ、日本のお国はな、何があったっち、二度っち、戦(ゆっさ)んぶんなしちゃないもはんど」。話は決まってこう締めくくられた。
母の思いを受け継ぎ、戦争を体験した最後の世代として、記憶を伝えていかなければならない。
(2022年8月16日付紙面掲載)