2014年、京都賞受賞者鹿児島講演会の会見で、同賞への思いなど語る稲盛財団・稲盛和夫理事長=鹿児島県庁
京セラ創業者で名誉会長の稲盛和夫さんが逝った。古里の鹿児島をこよなく愛し、地元経済の発展や母校の支援、スポーツ振興に晩年まで力を尽くした。独自の経営哲学や信念を貫く姿は多くの人を引きつけ、後進に与えた影響は計り知れない。「郷土の恩人」「人生を教わった」-。訃報が伝えられた30日、鹿児島県内のゆかりの人たちは、追悼や感謝の思いを口にした。
「どうしてもだめなら鹿児島に戻ろう」。30年近く稲盛和夫さんの秘書を務めた大田嘉仁さん(68)=大津市=は、稲盛さんがこぼした言葉を覚えている。1990年代、臨時行政改革推進審議会の専門委員として、運転免許証の有効期間変更など規制緩和を進めた際、官僚が立ちはだかった時だ。
郷土の先人、西郷隆盛を思いながら使命を果たそうとする姿を間近で見た大田さんは「政治家は官僚の側に付き、口にできないほどのプレッシャーがかかっていた」と振り返る。2010年に再建を託された日本航空でも激しい反発を受けたが、風向きは次第に変わった。「どんな相手でもとことん話を聞く。その姿勢と信念に誰もがファンになった」
稲盛さんとは同じ鹿児島市薬師の出身で実の父子のように厳しくも温かい指導を受けた。仕事では筋を通す稲盛さんだったが、大田さんが野菜を食べるよう促すと「おいしいと思うものを食べるのが健康にいいんだ」とユーモアで返した。「大きな愛があふれていた。感謝の気持ちしかない」
同市の鹿児島玉龍高校元同窓会長の渕本逸雄さん(77)は「玉龍の誇り」としのんだ。「校庭の整備に駆り出され、いい思い出がない」とぼやきながらも寄付や講演に応じ、謝礼は決して受け取らなかった。
稲盛さんが終生愛したのが郷土の味。「講演の前は『まずラーメン行っが』とニコニコ。付き合うしかない」と渕本さん。座席に着くとすぐに漬物やお茶をみんなに配った。「あの笑顔が忘れられない。ギョーザや牛丼など気取らない料理も好きだった。ずっと元気でいてくれると思っていたのに」と惜しんだ。
母校の同市西田小学校には2015年度に稲盛さんの寄付で「夢有眠(むうみん)文庫」ができた。夢をテーマに伝記や科学技術、町工場を紹介する約280冊が並ぶ。PTA会長の渡康嘉さん(44)は「鹿児島から後進が育ってほしいとの願いがこめられている。世界をリードした先輩がこの学校にいたと誇りに感じる」と語った。
京セラ広報室によると、稲盛さんはここ数年、主に自宅で穏やかに過ごしていた。最後の出社は20年9月。大きく体調を崩すこともなく、自宅で親族にみとられ亡くなった。