大規模な断水により給水車には住民の長い列ができた=1993年8月8日、鹿児島市武岡2丁目
〈8・6水害30年 あの日を語る〉鹿児島市周辺を記録的な大雨が襲った1993年の8・6水害。同市紫原地区に住んでいた小原尚子さん(62)=熊本市東区=は1週間の断水を強いられた。それから欠かさず水を備蓄。23年後、移住した熊本で2度の大きな地震に見舞われ、再び水が止まった。保管した水で大事に炊いたご飯の塩おにぎり。家族4人で分け合い、備えの大切さをかみ締めた。
夕方なのに真夜中みたい-。1993年8月6日夕、小原さんは高台にある自宅から異様な空を見上げた。
しばらくすると滝のような雨が降り始めた。旧郡山町で仕事中だった夫と連絡が取れない。「何か起きたのかもしれない」。子どもは当時3歳と5歳。不安が募った。
7日の明け方に夫が帰宅し胸をなで下ろした。だがすぐに日常は戻ってこなかった。断水が続き、暑いのに風呂に入れない。トイレも使えない。皿にラップを敷くなど洗わずに済む工夫を重ねた。
自衛隊の給水などで何とか乗り切った。痛感したのは、普段意識しない水の大切さ。「もう大変な思いはしたくない」。8・6水害を契機に2リットルのペットボトルの水を12本分備え始めた。
99年に夫の転勤に伴い熊本市に引っ越した。蓄えた水の出番は1回も来ない。「面倒だからやめよう」と考えたこともあったが、8.6の記憶が消えず、備え続けた。
2016年4月14日午後9時半前。自宅でアイロンをかけている時、突然大きな地震が起きた。電灯や皿が次々と床に落ちる。「つぶされる」。その後も余震が続き、子どもたちと外に出て、車中泊をした。
16日未明、車内で眠っていると再び揺れに襲われた。車がひっくり返ると思うほどの激しさ。2日後、家に戻ると、クーラーやレンジが床に散乱していた。食器棚は倒れ、壁には穴が空いている。停電は免れたが、水が止まっていた。
頭に浮かんだのは保管した水。ペットボトルを取り出し、米を炊いた。2回目の地震が起きて以降、避難所で配られたパンを1回食べただけだった。ささやかだけど、久しぶりの手作りの味。極限の状態が続いていただけに、夫と子どもの表情は和らいだ。
水はその後も飲み水などとして役立てた。「災害の準備を怠らずに良かった」と心から思えた。
今もスマートフォンのアラーム音を聞くと、体が震える。簡易トイレや体を拭くシート、洋服、非常持ち出し袋…。自宅には水以外の備蓄品も増えた。
冬はカイロを加えるなど季節によって中身を入れ替えている。それでも面倒だとは思わない。「3回目の災害がないとは言い切れないから」
■熊本地震 熊本県益城町で2016年4月14日夜と16日未明の2度、震度7を記録した。震災関連死などを含めた犠牲者は大分県を含め270人を超える。