「ソ連軍侵攻では死を覚悟した」と語る黒原光治さん=曽於市
■黒原光治さん(89)曽於市末吉町諏訪方
一九三五(昭和十)年、周囲の知人や友人たちの中にも出兵するものが目立ち始めた。十八歳だった私は「お国のために」との一心で、佐世保海軍工廠(こうしょう)で働こうと長崎に行くことを決めた。だが、すぐには工廠には入れなかった。一年半ほど町の鉄工所で働きながら工廠の募集を待ち、三七年になってようやく働くことができた。大きな軍港だった佐世保工廠の巨大ドックにはただただ驚かされた。
三七年の年の暮れ、工廠を退職。先に海を渡った同郷出身の知人を頼りに、満州に行く決心をした。奉天造兵所に勤務するためだ。配属された第三製造所火砲工場には約二百人の工員が働いていたが、ほとんどは中国人。私を含め日本人は五人程度にすぎなかった。朝七時から翌朝までの徹夜作業も、週に数回あるほどの忙しさだった。
高射砲を組み立てると旅順まで持っていき、二〇三高地が見える丘の上から沖へ向かって試射した。旅順への発射試験の帰り、大連駅前で大勢の兵士が担架に乗せられ運ばれるのを目撃した。聞けばノモンハン事件の死傷者だという。初めて戦争の残酷さを目の当たりにした思いだった。
奉天造兵所で必死に働き、気が付くと五年の歳月が流れていた。四三年正月二日、奉天を離れ久々に祖国の地を踏むことになった。技術員三人で約三カ月間、高射砲の照準装置作製のため研修を受けることになったのだ。京都、名古屋、東京、茨城の計四カ所で工場見学したが、どの工場も仕上げ工員はほとんどが女子。男子はみな兵隊にとられ、いよいよ戦況も悪化しているのかと感じた。
三カ月の日本研修を終えるとただちに奉天に戻った。帰満後は今まで以上に忙しい日々が待っていた。技術員五人ひと組で満州各地に駐屯する部隊を回り、高射砲などの修理をする任務に就いた。部隊内に直接入る機密任務ということで、次はどこの何という部隊に向かうのか、知らされることはなかった。そんな部隊間を飛び回る日々が続き、とうとう運命の終戦を奉天で迎えることとなった。
しかし、終戦の感慨にふけっている暇はなかった。ほどなくソ連軍が侵攻してきたからだ。「チャッセ(時計)ダワイ(よこせ)ダワイ」。ソ連兵は日本人を見るとロシア語でこう迫ってきた。女性も見つかると連れて行かれるため、坊主頭にしていた。ソ連軍は造兵所を押さえ、工員を使ってすべての兵器や機械類を貨車で本国に運び出した。ちまたでは「技術者はさらわれて連行されるらしい」とのうわさで持ちきりだった。私も毎日生きた心地がせず、つねに死の恐怖と隣り合わせの日々を送った。
ソ連軍の目を逃れ中国人の鉄工所で住み込みで働き始めた。工場の主人は日本人の私にも実によくしてくれた。休日に市街地へ出てみると、道ばたでぐったりしている開拓団員の日本人青年に出くわしたことがあった。病気で深刻な状態だったため鉄工所に連れて帰るわけにもいかず、開拓団の収容所となっていた小学校にも行ってみたが、栄養失調の患者が大勢床に横たわっており、どうすることもできずに涙ながらに学校をあとにしたことをいまも思い出す。
終戦から一年。ようやく船で帰国することができた。博多から汽車で故郷へ。十年ぶりのふるさと末吉はほとんど変わっていなかった。父母に弟たち六人の元気な顔。「よかった、よかった」。互いに肩を抱き合うと自然と涙がほおを伝って落ちた。戦争は二度と起こしてはならないと強く思う。
(2006年10月21日付紙面掲載)