見知らぬ土地で死ぬよりも家族と一緒がいい。子どもにこんな発想をさせる、それが戦争の狂気。そして東京に焼夷弾がふたたび降り注いだ【証言 語り継ぐ戦争】

2024/01/02 11:36
「子どもも無差別に命が狙われるのが戦争」と語る三木靖さん=7月、鹿児島市中央町
「子どもも無差別に命が狙われるのが戦争」と語る三木靖さん=7月、鹿児島市中央町
■三木靖さん(86)東京都八王子市

 1945(昭和20)年4月13日夜、寝ていたら敵機襲来を告げるサイレンが鳴り響いた。当時は国民学校の2年生で、東京都豊島区目白に両親と弟2人の5人で暮らしていた。

 「ついに来たか」。3月には、10万人以上が犠牲となった東京大空襲があった。わが家は無事だったが、教員だった父と焼け跡を見に行った。一面何もなくなっていて、うちもいずれこうなるのだと覚悟した。

 学校の友達はほとんど疎開していたが、親から「どうせ死ぬなら知らない土地がいいか、家族と一緒がいいか」と問われ、自宅に残ることを選んでいた。子どもでもこんな発想になるのが戦時の狂気だ。

 空襲警報を聞いて、母、弟たちと家を飛び出した。父は町内会や警防団の役員をしていて消火のため残った。家の庭には親戚総出で、離れの建物をそのまま埋めた防空壕(ごう)があった。ただ、結局は入らなかった。父は東京大空襲の惨状を見て、火の海の中では壕に逃げても助からないと思ったのだろう。結局、この判断が生死を分けた。

 目指したのは家から2キロほど離れた椿山荘。今も有名なホテルで、当時から立派な庭園があった。走って逃げる間は、周囲に火の粉が飛んでいて、爆撃機に追いかけられている感覚だった。泣き叫ぶ声、焼夷(しょうい)弾の音、電波妨害のための銀紙が「シャラシャラ」と落ちる音が今も耳に残る。風邪をひいていた母は煙を吸って苦しそうだった。

 やっとのことでたどり着いた椿山荘には火の手は回っていなかった。庭木の下にしゃがみ込むと、弟が防空壕に宝物を忘れたとぐずり始めた。戦車や戦艦の模型だ。私も百科事典を置いてきたことを思い出した。夜空には焼夷弾が列になって落ちていた。暗闇の中、炎に照らされた街の景色が不気味だった。

 明け方、父がボロボロの自転車に乗ってやって来た。なぜか客間の時計だけ荷台に載せて。一家がそろい安心したのか、その場で仮眠してから家に向かった。

 家は焼け落ちていた。写真も着る物も全部なくなった。庭の防空壕は水浸しで、百科事典もぬれていた。向かいに住んでいたおばあさんは、近くの防空壕に逃げて亡くなった。おそらく壕の中で窒息したのだろう。

 家をなくし、近くの親戚を頼ったが、だんだん厄介者として扱われ始めた。惨めで悔しく、精神的に参った。ずっとおなかをすかせていた。玉音放送はどこかで聞いたはずだが、覚えていない。

 大学院修了後、1967年に新設された鹿児島短期大学(後の鹿児島国際大短期大学部)に赴任。半世紀近く鹿児島で歴史を教えてきた。あの狂気の時代を生きた人間として、教壇では戦争は絶対にいけないと訴え続けた。世の中の雰囲気も反戦、平和を希求することが当然だった。

 ただ、歴史には“揺り戻し”がある。近年、戦争の悲劇を想像できていないような意見が世間で広がっている印象だ。揺り戻しの幅を小さくする、極端な思想に偏らないようにすることが大事だ。

 始まってしまえば、子どもであっても無差別に命が狙われる。それが戦争だということを忘れてはいけない。



 三木靖さんは11月17日に亡くなりました。生前、取材した内容や手記を基に、ご遺族の了解を得た上で掲載します。

(12月20日付紙面掲載)

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