「この戦争は勝ち目がない」。予感から間もなく、転戦中の中国大陸で敗戦。「生きて帰ることはできない」。そう覚悟した【証言 語り継ぐ戦争】

2023/12/24 18:00
「民間人が犠牲になる戦争は二度としてはいけない」と語る下原邦義さん=霧島市牧園町上中津川
「民間人が犠牲になる戦争は二度としてはいけない」と語る下原邦義さん=霧島市牧園町上中津川
■下原(旧姓川路)邦義さん(104)鹿児島県霧島市牧園町上中津川

 1919年12月10日、霧島市牧園町上中津川で9人きょうだいの4男として生まれた。父は農家をしていた。戦争に行ったのは私を入れて3人。長兄で10歳上の藤義は中国大陸から南方に向かう輸送船が沈んで亡くなった。次兄で8歳上の実義はフィリピンで戦死している。私は尋常高等小学校を卒業後、同市隼人の酒屋で1年間勤め、福岡県の小倉陸軍造兵廠(しょう)で働いた。大砲の弾を造っていた。

 二等兵として召集されたのは41年3月下旬。福岡の門司港から上海へ上陸した。所属した独立歩兵第96大隊は九州出身者が多かった。道中は治安もよく、街並みを楽しみながらトラックや馬車に揺られた。戦争に行くというのに旅行気分だった。

 湖北省宜昌の近くで初年兵訓練を受けた。きつかった。銃を組み立てて弾薬と一緒に馬に乗せたり、空砲で目標物を狙ったりした。2班に分かれて速さを競い、負けるとグラウンドを走らされた。朝から晩まで休みなしだった。

 末端の兵隊では体が持たないと思った。初年兵訓練を受けた後、下士官養成過程に進むことを志願。南京などで教育を受けた。教育を終えて伍長になった頃の写真が手元に残っている。

 警備が主な任務だった。山間部にいたので、敵に遭遇することはほとんどなかった。討伐に出掛けても中国兵はすでに逃げ去っており、一発も撃たないで戻ってくることばかり。この戦争は勝てると信じていた。

 住民とは仲良くしていた。警備をしていた村の代表から結婚式に呼ばれたり、卵や野菜をもらったりと楽しい思い出が多い。

 44年6月から8月にかけての衡陽(湖南省中南部)攻略が最大の戦闘だった。ある夕方、軍曹として8人の分隊を率いて小高い丘を攻めた。部下3人と55キロある重機関銃を引っ張りながら、泥の中をはった。

 暗夜の中、敵はやみくもに撃ってきた。周りは田んぼ。身を隠す場所はほとんどなかった。じっとしていると照明弾で見つかってしまうので、進軍はやめなかった。体近くを弾がかすめることはしょっちゅう。生きた心地がしなかった。

 敵の銃の位置は音で聞き分けた。ぴゅーんという音だと弾は体よりも高い場所を飛んでいる。これがしゅーっという音だと近くから発砲されている。すぐさま頭を伏せた。

 夜が明けるまでに敵機関銃の死角まで移動できたので、生き残ることができた。もう一つの分隊では、同じ年に入隊した隊長が戦死した。生きるか死ぬかの壮絶な戦いだった。

 司令部のあった武漢(湖北省)に戦死者の遺骨を届けに行ったことがある。木陰で軍楽隊が演奏を楽しんでいたのに驚いた。兵隊もきれいなシャツを着ており、軍属と見分けがつかなかった。日曜日には外出も許されているようだった。前線では貧しい食事に加え、何日も風呂に入れずに我慢していた。後方はのんきなものだとあきれた。

 45年4月、通信兵になるための教育を漢口(湖北省)で受けることになった。桂林(広西チワン族自治区)を出発し、湖南省霞流市まで移動。湘江という川を渡ろうと木製の手こぎ舟に乗り込んだ。川岸は菜の花がきれいだった。出発して川の中ほどに来たところで、右岸側から30人ぐらいの敵兵が銃撃してきた。

 感じたことのない激痛が右足に走った。ふくらはぎを撃たれていた。必死で傷を押さえながら「早く岸に舟を着けろ」と叫んだ。川岸で舟を下り、斜面をはって逃げた。幸い、弾は貫通していて後遺症にはならなかった。

 漢口では無線のやり取りをよく聞いた。各地の戦局の情報も飛び交っていた。沖縄戦で負けたことをそこで知った。この戦争は勝ち目がないと初めて感じた。

 教育を終えて部隊に戻る途中で終戦を知った。少し前から日本軍の飛行機が飛ばなくなっていたので予感はあった。「敵地の真ん中で敗戦を迎えるとは。生きて日本に帰ることはできないだろう」。暗い気持ちになった。

(2023年12月24日付紙面掲載)

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