1985年1月に遺族や戦友と中国を訪問した時の写真。下原邦義さんは後列の左から4人目
■下原(旧姓川路)邦義さん(104)鹿児島県霧島市牧園町上中津川
湖南省の岳州で終戦を知った。物資を前線に運ぶ拠点の漢口(湖北省)まで移動することにした。日本兵が多い場所の方が安全だと思ったからだ。
到着するなり衣服と食料をかき集め、前線から戻ってくる仲間を迎える準備をした。ところがやって来たのは中国兵。漢口から逃げ出していたはずなのに、もう戻って来たのかと驚いた。大きな冷蔵庫があり卵から魚まで何でもあったが、全て持ち去られてしまった。
トラックがひっきりなしに出入りしていたのも覚えている。憲兵に「爆風が来るかもしれない。注意して」と声をかけられた。後で知ったことだが、トラックは弾薬を揚子江まで捨てに行っていたそうだ。
その後、揚子江のそばにある九江(江西省)まで移動。武装解除を受けた。対岸の黄梅で捕虜生活を送った。中国軍の指示で、所属した機関銃中隊の80人はいくつかの集落に分散。民家の土間で中国人と一緒に生活した。
驚いたことに労働を強いられることはなかった。10カ月の間は釣りや相撲をして気ままに過ごした。日本に帰ってからの生活に困らないようにと散髪の稽古をする人、野菜作りを勉強する人などさまざまだった。
綿花栽培と薬局を営む一家とは仲良くなった。収穫や庭木の手入れをよく手伝った。おかずを提供してくれることも多かった。1946年6月、引き揚げが決まった時も、途中でおなかをすかさないように、と食べ物をたくさん持たせてくれた。
相手は決して豊かな暮らしではなかった。「無事に帰国できてよかったね」と私たちのために泣いてくれた。なぜここまで優しくできたのか。家族や友人を殺したかもしれない敵国の人間なのに。私も涙が止まらなかった。立派だった彼らの姿を、語り残さねばと思う。
中国人には恨まれても仕方ないと思っていた。私は幸いなことに民間人を傷付けることはなかったが、スパイとして捕まえた中国人に拷問するのを目撃したことがある。戸板に十文字に縛り付け、殴ったりタバコの火を押しつけたりする。何度も川に顔を逆さまに突っ込んだ。むごいことだ。泡を吹きながら、殺してくれと泣き叫んでいた。
引き揚げの時は九江から上海まで列車で移動した。天井のない貨物車にぎゅう詰め。夜のことだった。駅でもないのに列車が止まった。中国人の集団が線路で通せんぼしていた。長い棒でこちらを打ちつけてくる。持ち物を渡さないとどいてくれない。動き出しては、別の集団に止められるということが何度もあった。
上海で日本の駆逐艦「初梅」を見つけた時は「生きて帰れる」と心からほっとした。そこでも中国人による手荷物検査があった。乗り場の前にシートが並べられ、貴重品を全て置いていくようにと指示された。1人でも逆らえば、全員を乗船させないと言われたので、素直に従った。親しくしていた中国人から誕生日に銀製の印鑑を贈られていた。大切にしてきたのだが、泣く泣く手放した。
復員後は戦死した次兄の妻の下原フジ(2003年に94歳で死去)と結婚。農家として米やイモを育てた。地域のために農業委員や民生委員を長年引き受けた。毎年、鹿児島市で戦友会「九六会」を開いて夜遅くまで語り明かした。85年に遺族や戦友と中国で戦跡巡りをした。報復を受けないか心配だったが、歓待された。血を流し合った相手と笑い合える日が来たことが本当にうれしかった。
恐らく私が部隊で最後の生き残りだろう。ロシアによるウクライナ侵略とイスラエルとハマスの軍事衝突のニュースを見る度に胸を痛めている。戦争で犠牲になるのは、兵士だけではない。一番苦しむのは市民だ。建物は壊れ、土地は荒れる。戦争だけはもう二度と繰り返してはならない。104歳の心からの願いだ。
(2023年12月25日付紙面掲載)