池崎家は屋根裏に入った猫の重みで天井が猫ごと降ってきて、突発的に猫とルームシェアできる令和の時代にもない前衛的な家だった。猫はリビングだけなく、トイレにも降ってくる。まずは池崎家のトイレを説明しよう(お食事前後の方ご勘弁を)。
トイレはくみ取り式、いわゆるボットン便所、通称ブラックホールだ。僕は当時やたらとトイレに行っていた。自分の部屋がなかった僕にとってトイレは唯一のプライベート空間。大好きな漫画を誰にも邪魔されず楽しめる場所だったからだ。
しかし和式トイレでのウ○コ座りの長時間読書は僕の脚に乳酸をため、脚をガクガクにしてしまう。その状態から立ち上がるもんだからバランスを崩し、壁に手をついた拍子に持っていた漫画をブラックホールに落としてしまうのだ。
落とした漫画がエッチな場合が最悪だ。ブラックホールは極端にゆっくり吸い込んでいくため、数時間は漫画が表面に浮いた状態になるからだ。そのままにしてしまうと次にトイレに入った家族に、こっそりエッチな本を読んでいた事がバレてしまう。そんな時はトイレットペーパーで、上から本を覆い隠すしかないのだが、浮いている本までは2メートルほどの距離があり、ひらひらとしたトイレットペーパーをドンピシャで本の上に降らす事はなかなかに難しい。そのため、僕はブラックホールがホワイトホールになるほどの、常識の範疇(はんちゅう)をはるかに超える量のトイレットペーパーを降らせる事もあり、度々母に叱られたものだ。
そんなトイレに猫が降ってきた。いつものように漫画持参で用を足していたある日、気配を感じて見上げると、トイレの小窓に猫がへばり付いていた。当時かわいがっていたサジマと名付けた野良の白猫だ。どうやら入りたいようで窓をガリガリしていた。入れてあげようと脚をガクガクしながら立ち上がり、窓を開けた。するとサジマはうれしそうに、にゃん!と鳴いて、目の前に立つ僕に飛びついてきた。なんともかわいい。しかしその飛距離が絶妙に足りなかった。
僕に届かなかったサジマはあろうことかブラックホールの方に吸い込まれていこうとしていた。今でも鮮明に覚えている。まるでスローモーションだった。ゆっくりと落ちていくサジマ。頭の中でよみがえるサジマとの思い出。おいしそうにご飯を食べるサジマ、時々セミをとってきてくれるサジマ。おやじの顔面に降ってくるサジマ。いかないでくれサジマ。駄目だ!
手を伸ばそうにも、脚がガクガクで間に合わない。だが、サジマは諦めていなかった。サジマは前脚後ろ脚をモモンガのように思いっきり広げ、便器の縁に突っ張って落ちずに耐えたのだ。早く助けろと目をガン開きにしてこっちを見るサジマ。突っ張るサジマの脚もガクガクだ。トイレは猫と人間が脚ガクガクさせながら見つめ合う異様な空間と化していた。
僕は急いでサジマを抱き上げた。奇跡的に助かったのだ。猫ってやっぱすごい。やたらと降ってくるし。とにかくサジマが黒猫にならなくて本当に良かった。
続く。