練習機「白菊」で特攻隊員を養成する教員に。8月15日。「ソ連軍に特攻を」の命令。北海道に向かったが、「復興に尽くせ」と司令。練習生はいきり立った〈証言 語り継ぐ戦争〉

2020/09/03 17:00
太平洋戦争末期、飛行服姿の井ノ久保武義さん(井ノ久保さん提供)
太平洋戦争末期、飛行服姿の井ノ久保武義さん(井ノ久保さん提供)
■井ノ久保 武義さん(94)宮崎市熊野
 私が所属する海軍第七六二航空隊偵察一一飛行隊は、鹿児島航空基地における偵察機「彩雲」の慣熟訓練を終え1944(昭和19)年12月14日、香取航空基地(千葉)に移動。硫黄島やサイパン方面の偵察任務に就いた。

 最高速度600キロ以上の高速を誇る彩雲とはいえ、レーダー哨戒網を駆使した米戦闘機の待ち伏せに遭っての未帰還も相次いだ。

 この頃、私は右耳がはれて聴力が落ち、飛行を止められていた。指宿勤務時代、風呂でふざけて泳いだ際にばい菌が入った。飛べないことが悔しかった。

 偵察一一飛行隊は沖縄戦に備え、45年3月1日付で、第三航空艦隊から第五航空艦隊に転籍。彩雲14機で鹿屋海軍航空基地に進出した。耳が治らぬ私も同行したが、同10日付で富高航空隊(日向市)への転属を命じられた。

 バスに乗って鹿屋航空基地を出る時、運転手が「だれか走って追い掛けてくる」というので、振り返ると、佐世保航空隊(長崎)からずっとペアを組んできた偵察員の松八重迪雄(みちお)上飛曹だ。2人とも胸が詰まり、しばし抱き合ったまま動けなかった。

 「彩雲でも海面すれすれか、高度1万メートルを行かんと生き残れん。新しいペアの上官には必ず言えよ」と助言したが、心優しい彼は笑って「よう言わんわ」と返した。私と同じ宮崎の日南出身、3歳下の好漢は3日後、偵察行から戻らなかった。

 私は富高からすぐに岩国航空基地(山口)に移り、そこで予科練を終えた飛行術練習生(飛練)の若者を特攻隊員に養成する教員になった。

 機上作業練習機「白菊」に、練習生とともに乗り込み、海に浮かぶ目標に突っ込む手本を見せる。「白波で風の強さを判断。機首を修正しないと目標を外すぞ」と教えた。

 それでも、飛行機乗りに憧れてきた10代の若者に、最低限のことは教えたいと思った。海軍独自の三点着陸を教えていた5月中旬、飛行作業を終えた際に練習生の前で、分隊長からいきなり殴られた。「全然仕上がっとらん」と叱責(しっせき)が続いた。

 要は「敵艦に突っ込む技術だけ教えときゃいい」ということだ。腹が立った。2発目を手でかばったため、「上官抵抗だ。軍法会議だ」と騒がれたが、軍法会議は開かれず、程なく転勤命令が出た。

 8月15日は、霞ケ浦航空隊(茨城)で特攻隊員を養成していた。「北方四島に侵入したソ連軍に特攻を掛けろ」といわれ、上野駅から練習生を引率して北海道に向かったが、美幌航空基地の司令に「日本の復興に尽くせ」と説得された。

 徹底抗戦を唱え、いきり立つ練習生をなだめるために、しばらく北海道にいて、東京に戻ってきたのは11月だった。街は既に米兵であふれていた。
 ちょっとした運に恵まれ、生き延びた。「自分だけ生き残って申し訳ない」。若くして亡くなった仲間に対する後ろめたい思いは、94歳になった今も消えることはない。

※2016年9月9日付掲載

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