「自由に物が言えない時代を二度と繰り返してはいけない」と話す樋渡カズエさん
■樋渡カズエさん(91)曽於市末吉町岩崎
1941(昭和16)年4月、満開の桜並木に迎えられ、末吉高等女学校(現曽於高校)に入学した。実家のある南之郷・橋野集落からの新入生はわずかに2人。誇りと希望を胸に校門をくぐった。
一番好きな科目は英語だった。生まれて初めて触れる外国語の世界が楽しくて、アルファベットや英単語を一生懸命に覚えた。担当の女性教諭、泰山先生はあこがれの存在で、自分もいつか先生のように話せるようになりたいと思っていた。
ところが、その年の12月に米国との戦争が始まり、英語は敵性語として禁止された。「英語をしゃべれば、憲兵に捕まって牢屋(ろうや)に入れられる」と言われ、授業も中止。泰山先生は音楽担当になった。
戦争末期に勤労学徒動員が始まると、約80人いた同級生の中から選抜されて鹿屋の海軍基地で通信員として働いた。実家から離れるのはつらかったが、断る自由はない。「お国のため」に軍で働くことは名誉であり、集落民から出征兵士のような見送りを受けて家を出た。
鹿屋基地で働いた期間はよく覚えていない。いったん学校に戻ったが、卒業を間近に控えた45年1月、全員が講堂に呼び集められた。福岡市にある九州飛行機第16工場への動員が決まったという。列車に乗って博多駅に着くと、鹿児島ではほとんど見たことがない雪が降っていた。
毎日毎日、朝から晩までジュラルミンの板にやすりをかけた。それが米軍爆撃機B29の迎撃用に開発されていた局地戦闘機・震電(J7W1)の部品だったと知ったのは、戦後になってから。試験飛行を終えた直後に終戦になり、実戦で使われることはなかったらしい。
南国育ちの身には何より寒さがこたえた。工場にも寮にもまったく火の気はなく、両手はしもやけで真っ赤に腫れ上がった。薬も包帯もなかったため、タオルでぐるぐる巻きにしただけで痛みに耐えながら黙々とやすりをかけ続けた。
鹿児島に戻ったのは、卒業後の5月か6月ごろだったと思う。帰郷してすぐ地元の農協で事務員として働き始めた。物資不足で靴もなく、実家から約1時間の道のりをげたを履いて通勤していた。
8月のある日、農協から歩いて帰る途中、後ろからキーンという甲高い音が響いてきた。振り返ると、銀色に輝く米軍機の機体が見えた。とっさに道路脇の小川に飛び込み、土手にしがみつくようにして隠れた。
ほんの少し前まで歩いていた道に無数の機銃弾を撃ち込みながら、米軍機は南に飛び去って行った。判断が一瞬でも遅れていたら、今ごろ生きていなかっただろう。「助かった」と思った瞬間、涙が止めどなくあふれてきた。あの恐怖は74年たった今も昨日のことのように思い出す。
それから程なくして戦争は終わった。敗戦の悔しさよりも「もう飛行機の音におびえなくてすむ」という安堵(あんど)感の方が強かった。その後も「米兵が志布志に上陸し、女子どもを殺しにくる」とのうわさが流れ、家族で南之郷の山中に1週間隠れたり、米兵の姿が見えると幼いめい2人を連れて逃げたりした。
楽しいはずだった高女時代は戦争一色に塗りつぶされ、自分のやりたいことは何一つできなかった。あんなに英語が好きだったのに、今でも横文字は読めないままだ。自由に物が言えない時代を二度と繰り返してはいけない。
※2019年10月2日付掲載