瑞鶴は「鳥も通わぬ」冬の北洋を進む。少しでも速度が出るように九七式艦攻を丹念に磨いた。12月7日早朝。艦攻隊は真珠湾奇襲へ飛び立った〈証言 語り継ぐ戦争〉

2020/09/25 17:00
木之下茂道さんが乗り組んだ日本海軍の航空母艦「瑞鶴」(戦史叢書「ハワイ作戦」から転載)
木之下茂道さんが乗り組んだ日本海軍の航空母艦「瑞鶴」(戦史叢書「ハワイ作戦」から転載)
■木之下 茂道さん(94)鹿児島市西伊敷5丁目
 1941(昭和16)年9月、海軍の二等整備兵だった私は、就航間近い航空母艦(空母)「瑞鶴」の艤装(ぎそう)員となった。

 一般兵の艤装員は、新造鑑の装備取り付けなどを造船所に指導する。それに対し、整備兵の艤装員は、空母に搭載する飛行機を各地の航空隊からかき集めてくるのが仕事だった。

 瑞鶴は、1人乗り戦闘機の「零式艦上戦闘機」(零戦)、急降下爆撃を担当する2人乗りの「九九式艦上爆撃機」(九九式艦爆)、魚雷攻撃と水平爆撃を担う3人乗りの九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)の3種、計72機を積むことになっていた。私は九七式艦攻の担当で、大分の宇佐海軍航空基地を拠点に飛行機を集めた。

 出水海軍航空基地に飛行機を取りに行った時のこと。搭乗員と2人で宇佐に戻る際、地理に不慣れで、あわや九州山地に激突、という目に遭ったこともある。突然、山肌が目前に現れたあの恐ろしさは、忘れられない。

 飛行機がそろうと、すぐに猛訓練が始まった。艦攻隊に同行して鹿児島市鴨池の鹿児島航空基地に短期間、滞在したこともある。

 後で、それが鹿児島湾をハワイ・オアフ島の真珠湾に見立てた訓練の一環だったことを知ったが、若手整備兵は、担当機の面倒を見るのが精いっぱいで、訓練内容を考える余裕などなかった。

 瑞鶴は41年11月26日、空母6隻でつくる機動部隊「第一航空艦隊」の一員として、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出発。その日初めて、「対米交渉が不調に終われば、米太平洋艦隊の拠点である真珠湾を奇襲する」ことを伝えられた。

 奇襲成功のために、機動部隊は、事前に外国船に目撃されてはならなかった。だから「鳥も通わぬ」といわれた冬の北洋をあえて進んだ。激しい風波にほんろうされ、当初は猛烈な船酔いに苦しんだが、そのうち慣れてしまった。

 揺れる艦の中では、飛行機の大掛かりな整備はできない。少しでも速度が出るよう機体を丹念に磨き、本番を待った。

 12月7日(日本時間8日)早朝、私の整備した機を含む瑞鶴艦攻隊はハワイ攻撃第2次隊として真珠湾へ向け飛び立った。私も搭乗員の指示を受けて、車輪止めを外し、艦攻隊を見送った。

 瑞鶴隊は1機も欠けることなく帰艦。それを見て攻撃の成功を確信した。就役からわずか2カ月間で、瑞鶴が真珠湾攻撃の準備を整え、作戦を遂行したことは、今振り返ってもすごいことだと思う。

 瑞鶴は42年に入ってからも、ラバウル攻略戦、セイロン沖海戦と太平洋、インド洋を転戦。勝ち戦を続け、日本の占領地拡大に貢献した。その風向きが変わり始めるのが、史上初の空母同士の戦いとして知られる同年5月の「珊瑚海(さんごかい)海戦」だ。

※2017年1月9日付掲載

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