日本青年会議所の会員を前に、米軍上陸直前の硫黄島での体験を語る西進次郎さん=2010年10月(西さん提供)
〈元学徒兵の回顧録⑤〉
元陸軍整備兵の西進次郎さん(97)=鹿児島市宇宿3丁目=は、終戦の年となる1945(昭和20)年の正月を硫黄島で迎えた―。
年が明けて陸軍駐屯地で5センチ四方の板餅にあんこ少々、黒豆、少しの数の子が振る舞われた。ありがたく頂戴したが、実は普段の食事は海軍の指揮下にいた方が恵まれていた。白米や牛の缶詰もあり、ひもじい思いはしなかった。元日は空襲もなく、島に来て初めてのんびり過ごせた。陸軍将校たちはにぎやかに談笑し、酒もあったのか、酔っぱらって大の字で寝ている大尉もいた。
所属した飛行第23戦隊は年末までに戦闘機が全滅し、隊員の半分は既に帰隊していた。年が明けて1週間はすることもなく、ただ迎えを待って過ごした。1月8日早朝、重爆撃機2機が迎えに来るという知らせが入った。荷物をまとめ、兵団司令部壕〔ごう〕前に整列してトラックを待っていると、栗林忠道中将が通りかかって足を止めた。
戦隊長が帰隊の報告をすると、栗林中将は「ご苦労さまでした。皆さんのご健闘には各方面から感謝されている」と丁重に礼を言われた。戦死者の遺骨を首にかけていた兵には、どのようにして亡くなったのか聞き、わが子のように遺骨を抱いていたわった。末端の兵士に優しい言葉で話しかけられ、全く恐縮した。一方で恥ずかしい思いも。島での40日間、われわれの戦闘機は敵に何の被害も与えられなかったから。
やがて迎えのトラックに乗り込むと、大勢の陸兵が見送りに集まってくれた。互いに笑顔で別れのあいさつを交わした。ほんのわずかな期間だったが、親密な付き合いだった。一緒に本土に帰りたいと言う人は1人もいなかった。ずっと手を振ってくれた。あの時の戦友の笑顔はいつまでも忘れられない。1カ月後、米軍が上陸して血みどろの決戦になるとは思っていなかっただろう。
2008年、日米合同の慰霊式典に参列し、63年ぶりに島を訪ねた。昔のことを思い出し、戦友たちに会いに来たよ、と伝えた。
数年後には、硫黄島の激戦を生き延びた米兵らを前にグアムで講演する機会があった。母が1945年6月の米による鹿児島大空襲の犠牲となったことを話した。みとった弟によると、壕内に煙が充満して外に飛び出し、大やけどを負った母は、体中にウジがわき、痛い痛いと言って死んでいったという。そのほか、真珠湾攻撃についての考えも伝えた。
戦場の実相を伝えるため、国内でも若い人たちに戦争体験を語ってきた西さん。延べ3時間を超える取材に「あの悲劇は繰り返してはならない。戦争は勝っても負けても得することはない」と訴えた。
79年前の今日12月8日は、真珠湾攻撃があり、日米開戦が幕を開けた。
=おわり=