母が使ったてんびん棒を手に、戦争の不条理さを訴える小玉正紹さん=都城市総合文化ホール
68歳で中途失明しながら、満州(現在の中国東北部)からの苦難に満ちた引き揚げ体験を歌に託し、戦争がもたらす悲劇を訴え続ける男性が宮崎県都城市にいる。
同市上川東2丁目の元中学校教諭、小玉正紹(まさつぐ)さん(84)。満州国の国民学校1年生だった1945(昭和20)年7月、教師の父が徴兵され、ほどなく日本の敗戦が決まった。収容所の乏しい食事で母の乳が出なくなり、弟は1歳を迎えられずに栄養失調で死亡。妹も、この時の栄養不足がたたり数年後に病没した。
軍を離れて追いかけてきた父と再会できたものの、家族は帰国までの間、中国人に分けてもらった豆腐の行商をして、飢えをしのいだ。一家4人が引き揚げ船で長崎・佐世保港に着いたのは46年6月だった。
小玉さんは宮崎県で中学校の体育教師になったが、定年後、網膜の病気で失明。それでも、「自分は妹や弟と違い、生きている。視力がなくてもやれることはあるはず」と、専門の教師について好きな歌を鍛錬。高齢者施設を回って、高齢者になじみ深い文部省唱歌を歌うなどの慰問を続ける。
活動の一環で9年前、自らの引き揚げ体験を「生きる原点『てんびん棒』」という歌にした。歌詞は、厳寒の冬、豆腐を運ぶ缶をつるしたてんびん棒を担いだ母とともに、小玉さんが「トーフー、トーフー」と声をからして街を売り歩いた光景を描き、「わが身は光を失えど 周りの声に耳すまし 歌う言葉に思い込め 平和を願うより強く」と結ぶ。
小玉さんは5日、市内で開かれた「都城大空襲を語るつどい」でも朗々と歌声を披露。「戦争は直接関係がない人もいや応なく惨禍に巻き込む。その不条理さを理解して」と若い世代に呼びかけた。