家族の引き揚げの様子を記録した冊子を手に体験談を語る宮田晃一郎さん=鹿児島市宇宿3丁目
■宮田晃一郎さん(86)鹿児島市宇宿3丁目
父祐二は満州国で関東軍法務部録事などの仕事をしていた。私は1937(昭和12)年に旅順で生まれ、新京に引っ越した。暮らしは比較的に恵まれていた。米軍による空襲もなく、日常生活に必要な物資や食料の不足はなかった。
しかし、ソ連の参戦で状況は一変した。在満国民学校3年生だった45年8月、戦況の悪化で軍関係の家族に新京駅集合の命令が下った。乗り込んだ列車の行く先は告げられなかったが、南下しているのは分かった。
8月13日、着いたのは北朝鮮の平壌駅だった。郊外の炭鉱会社の社宅に分宿。15日、社宅の人たちと一緒にラジオで終戦を知った。数日後、新京に残っていた父が避難民引率者として平壌に到着した。「戦争で負けたから、ピストルで死なないといけないかも」と語り、子どもながらにぞっとした。
旧関東軍の家族など約90人と一緒に、女学校などを転々としながら引き揚げの機会を待った。大同江という河川沿いの焼酎工場では、土間にむしろを敷いて寝泊まりした。環境は劣悪で、ノミやシラミがまん延し、はしかやマラリアなどが流行した。
食料不足で栄養状態も悪化した。ソ連兵による金品の強奪や婦女暴行もあり、女性は髪を短く刈り上げたりして身を隠していたのを覚えている。
食料確保のため、大同江でシジミを採り、野草を摘んだ。草履を編んで売るなど懸命に食いつないだ。収入の一部で買って食べた焼き芋のうまさは今でも忘れられない。
11月になり、弟の英治がはしかや栄養失調で亡くなった。わずか4歳。よく一緒に遊んだ。当時は自分も生きることに必死で、悲しむ余裕すらなかった。遺骨代わりに毛髪や爪の一部を取っておいたが、引き揚げの途中で繰り返された持ち物検査でいつの間にか紛失してしまった。
46年の6月、大同江を下って引き揚げを開始した。川舟や無蓋(むがい)貨車などを経由して南下。大人はリュックサックにできる限りの荷物を詰め込み、自分たちは幼いきょうだいを背負った。最後は山道を二十数キロ歩き、南朝鮮の開城にたどり着いた。
開城のテント村に着いたときは安堵(あんど)感でいっぱいだった。その後、仁川から博多港への引き揚げ船に乗った。途中も死者が出て水葬も見た。当初から一緒にいた90人のうち30人ほどが亡くなっていた。
博多に着いた後は、母の実家があった長崎の現佐世保市で生活した。父や兄と開墾し、農業を手伝った。食べ物には困らなかったが、なかなか貧困から抜け出せなかった。
2年浪人して鹿児島大学医学部に入り、小児科医になった。鹿大付属病院長なども務めた。ずっと信条としていたのは「命を大切にする」「弱いものを守る」の二つだ。幼い弟を亡くした経験がそう心掛けるきっかけになった。戦争では命がないがしろにされ、子どもら弱いものから苦しむ。
今まであまり戦争体験は語ってこなかった。思い出したくない記憶や、戦時中の差別意識などにふたをしておきたいという気持ちがあった。最近になって語る機会に誘われ、伝えることも大事だと実感した。
戦争では教育や言論、報道などあらゆるものが偏り、歯止めが利かなくなった。ロシアによるウクライナ侵攻の報道を目にするが、戦争は二度と起きてほしくないと改めて願っている。