グライダー教練に臨む薩南工業学校生。後列右から3人目が庭月野英樹さん
■庭月野英樹さん(97)宮崎市希望ケ丘1丁目
民間パイロット養成所から18歳で海軍航空隊の搭乗員になり、沖縄戦や特攻隊員の選抜・訓練を経て、生き延びた庭月野さんの回想を紹介する。
1926(大正15)年1月15日、勝目村上山田(現鹿児島県南九州市)の庭月野集落で、9人きょうだいの長男として生まれた。父・秀司は村役場に勤め、母・チカは手作りの豆腐などを売る小さな店を営んでいた。
大丸尋常高等小学校では、児童の間で野生のメジロを捕らえて飼うのがはやった。狭い竹かごの中で懸命に羽ばたくメジロを見て、「鳥のように飛べたらいいな」と夢想した。今思うとあれが空に憧れた最初の経験だったかもしれない。
9歳になった春、軍と連絡を取る兵事係をしていた父が村の青年を、鹿児島湾に入港中の海軍の軍艦に見学に連れていくことになり、一緒についていった。巨大な主砲やエンジンを見学した中、一番印象に残ったのが、搭載されていた水上偵察機だった。
偵察機が置かれた甲板に通じる狭いはしごをこわごわ上っていくと、水兵が脇に手を入れて体を持ち上げ、操縦席に乗せてくれた。
「操縦かんを動かしてごらん。動かしながら、右や左、後ろを見てみて」と言う。翼の昇降舵(だ)や補助翼が動く様子を見ろということだったのだろうが、体が小さいため、操縦席の外など全く見えない。だが、子どもの力でもくるくる動かせる操縦かんに引かれた。飛行機を身近なものに感じたこの経験がなければ、後に操縦士を志望することはなかっただろう。
小学校卒業後の40年4月、知覧町(現南九州市)の薩南工業学校(現薩南工業高校)金属工業科に進学した。自宅から川辺を経て学校まで片道23キロ、舗装されていない坂だらけの道を自転車で通った。最初の頃は、通学だけで疲れ切ってしまっていたが、続けていくうちに体力と根性がついた。
中国との間で戦争が続く中、学校には、陸軍から配属将校が派遣され、軍事教練が増えていた。夏休みになると、陸軍知覧飛行場の設営工事にも連日駆り出された。
太平洋戦争突入直前の41年11月には、大口盆地で鹿児島県内の全中学校が参加しての2泊3日の野外演習があった。霜が降りる寒さの中で夜間歩哨に立ったり、小銃の空砲を撃ったり、模擬の白兵戦で他校の生徒と銃剣を向け合ったりした経験は忘れられない。
私は運動神経がお世辞にも良くなく、体も小さかった。同じ重さの小銃や背のうを担いでの団体行動ではしんがりになりがちだった。徴兵検査を受けて通常ルートで陸軍に入るとなると、徒歩での行軍が必須になる。「それは避けたい」と考えた。操縦士志望は徐々に高まっていった。
1942(昭和17)年4月、16歳で薩南工業学校金属工業科を卒業し、大阪市の陸軍造兵廠(しょう)大阪研究所に軍属として入所した。戦車砲に耐えられる鋼板材の試験を担当していた。
通勤途中の駅で、長崎県諌早市に同年4月開所した長崎航空機乗員養成所の操縦生募集ポスターを見つけた。徴兵検査前に、飛行機の操縦士を目指せるチャンスだ。受験を決めた。
航空機乗員養成所は逓信省航空局が民間航空の操縦士養成を目的に造った機関だった。長崎の養成所を終えた後は、海軍の予備下士官になるのが条件となっていたが、「軍に比べれば訓練は厳しくないだろう」との見立てもあった。
1次の身体検査で「身長が規定の152センチに5ミリ足りない。不合格」と指摘された。がく然としたが、検査官の陸軍大尉が「胸板が厚いからまだ伸びる。合格」と「天の声」で覆してくれた。
「一度は死んだ」と思い、余計な力が抜けたのがよかったのか、2次の学科、3次の操縦適性試験も突破し、合格通知をもらった。喜んで職場に退職を申し出ると、「陸軍の軍属がなぜ海軍関係の養成所に行くのか」と問題視されたが、ここでも上司が「操縦士に採用されたのはこの者が初めてで、職場の誇りである」と助け船を出してくれた。多くの人の助力があって43年4月、第13期操縦生として養成所の門をくぐった。
だが、見立ては甘すぎた。待っていたのは、木の棒でしりをたたかれる「バッター」と呼ばれる制裁と駆け足移動が合わさった強烈な鍛錬だった。
飛行訓練は教官1人と学生5人が一組で行う。1人がミスすると、連帯責任で全員がしりを思い切り5、6発ずつ打たれる。毎日続くと、しりはどす黒く腫れ上がり、操縦席に腰かけると激痛が走った。私は体が小さいため、特にダメージが響いた。この時ほど、己の体の小ささをのろったことはない。
移動は常に駆け足だった。炎天下の訓練では、汗をかいては乾き、かいては乾きの連続で、夕刻ごろには飛行服の表面に真っ白な塩が噴き出した。1週間に一度、飛行服や落下傘など装備一式を着けたまま1周5キロの飛行場外周を走らされるのは、中でもきつかった。しかもクラス全員を二手に分け、右回りと左回りに走らせて、遅かった方は1周分、追加が付く。猛訓練のせいか、育ち盛りにもかかわらず背は少しも伸びなかった。
過酷な日々が続いただけに、43年10月、複葉の九三式中間練習機(九三式中練)で初めて教官と同乗せず単独飛行した時の喜びは忘れられない。まさに「天にも上る気持ち」だった。
(2023年8月26、27日付紙面掲載)