南さつま市金峰町大坂の扇山地区で発生した土石流で倒壊した民家=1993年9月4日
鹿児島県内は1993年、7月7日の「七夕豪雨」、8・1豪雨、8・6水害など悪夢のような風水害が続いた。追い打ちをかけるように戦後最大級と言われた台風13号が直撃した9月3日午後4時半ごろ、南さつま市金峰町大坂の扇山地区の民家を土石流が襲い、集団避難していた20人が犠牲となった。遺族や専門家は「避難したのに悲劇は起きた。今こそ扇山の教訓を生かすべき時」と訴える。
同市金峰町尾下の畠中實さん(80)は林業を営んでいた父政夫さん=当時(85)、母ハルさん=同(78)を失った。
大阪で路線バス運転手をしていた畠中さんはラジオで災害を知り驚がくした。飛行機やタクシーを乗り継ぎ翌4日に何とか帰郷。5日集落に入った。山肌はむき出しとなり泥水であふれていた。古里の跡形もなかった。母親の遺体が発見されたのは最後。「一瞬の出来事で苦しまなかったのではないか。夫婦仲良く天国に行ったのだろう」。今もそう言い聞かせている。
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扇山集落は金峰ダムに近い県道20号から南に約800メートル入った山間部にあり、斜面に民家が点在する。
当時集落は3班に分かれていた。犠牲となったのは2班の10世帯20人。集落全体の3分の1に当たる。旧金峰町などは超大型台風を警戒し、上陸前日の2日夜から住民に避難を呼びかけていた。ただ町指定の避難先である大坂公民館は約4キロ先。高齢者が多く輸送手段も確保できず近くの公民館に避難した。
その後、裏側に山があるため危険と判断。一緒に避難していた女性の自宅へ移った。昔から崩れたことがなく、「安全」と考えられていた。不運にも、ここを土砂が襲った。
自宅はほぼ無傷で残っていた。家にとどまれば無事だった可能性が高いが、畠中さんは「結果論になる。安全だと思い皆で避難したのだから仕方ない」と唇をかむ。
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被災した民家跡地に整備された扇山公園では今月3日、市主催の追悼慰霊式が開かれる。畠中さんは初めて遺族代表として臨む。
公園周辺は樹木が生い茂り当時の扇山の姿は想像しづらいが、慰霊碑には、亡くなった旧金峰中学校1年生の畠中勝幸さん=当時(12)=が授業で書いた詩「野原はうたう」が刻まれ被害を後世に伝える。
勝幸さんの同級生で市職員の福地健太郎さん(42)は同じ旧田布施小に6年通い仲良しだった。「ハタちゃん、生きていてくれ」。祈るような気持ちで捜索現場へ駆け付けた日を思い出す。災害は終わっていない。
福地さんは消防団員として慰霊式とその直前の市防災訓練に出席する。「ハタちゃんのことや災害を風化させず語り継ぎたい。ずっと忘れない」