戦時中、寺の鐘は砲弾となり人殺しに使われた…大晦日に響く誓いの半鐘「戦争に加担した過ち忘れない」 さつま・泉福寺

2024/12/30 07:03
太平洋戦争中に供出される前に泉福寺にあった梵鐘。重さは「382キロ」あったと記録が残る(泉福寺提供)
太平洋戦争中に供出される前に泉福寺にあった梵鐘。重さは「382キロ」あったと記録が残る(泉福寺提供)
 鹿児島県さつま町永野にある泉福寺の鐘楼には、寺の象徴とも言える梵鐘(ぼんしょう)がつられていない。太平洋戦争中の1943年、武器製造のための国の供出に応じた。代わりに下がるのは、重厚な響きの梵鐘よりも1回りも2回りも小さな半鐘だ。「戦争に加担した過去の過ちを忘れない。恒久平和が訪れるまでは梵鐘は置かない」。横井晃仁住職(75)の決意は固い。戦後80年に当たる2025年を迎える大晦日(おおみそか)の夜、泉福寺には今年も世界の安穏を願う甲高い音が響く。

 横井住職によると、382キロの梵鐘が「339円89銭」で回収された。香炉や花立てといった金属仏具も差し出した。1月15日付の梵鐘受領調書や、代わりに配給された陶器の仏具、軍からの感謝状も保管する。「回収された金属は砲弾となり戦場で人殺しに使われた」

 梵鐘は、西郷隆盛の子で当時は永野金山鉱業長だった菊次郎と住民の門徒が協力し設置したと伝わる。朝夕2回、地域に時を知らせるために鳴らされた。

 戦後50年に当たる95年、横井住職は泉福寺を含む県内の浄土真宗本願寺派に関する戦時資料をまとめ出版した。鹿児島教区が門徒から寄付を集め陸海軍へ飛行機2機を献納した歴史などを記録する。「本願寺は積極的に戦争協力した。廃仏毀釈(きしゃく)のトラウマなのか、国を怒らせないよう、必要以上に協力した」

 横井住職の両親は昭和10年代、開教使として韓国で活動した。実態は日本人への対応が主で、地域民への布教や対等な交流は限られた。母親は「侵略の手先になったことが悔しい」と口癖のように話していた。

 本願寺派が、全国の寺に戦時中の状況を尋ねた調査(2022年報告)では約9割が「供出した」と回答。県内の多くの寺は戦後、梵鐘の復元や再設置を進めた。泉福寺は14年に鐘楼を再建した際、寄付は集まったが梵鐘は置かなかった。横井住職は「世界に恒久平和の願いがかなった時、大きな梵鐘を設置したい」と語る。

 除夜の鐘は31日午後11時45分から30分間鳴らされる。半鐘は喚鐘ともいい、人を呼び寄せる合図に使われる。「今の社会は、自国を優先し他国を軽んじる風潮を感じる。民族や国を超えて、命の大切さは共通している。人が集い、平和を訴える場所になればうれしい」と話す。

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