硫黄島で戦死した父。届いた木箱の中は空っぽ。いつか遺骨を見つけてほしい。私は娘とDNAをデータベースに登録した〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/09/06 11:00
戦時下の新聞を見る牧内唱子さん(右)と娘の西野環さん(中央)、孫の西野真愛さん(左)=阿久根市波留
戦時下の新聞を見る牧内唱子さん(右)と娘の西野環さん(中央)、孫の西野真愛さん(左)=阿久根市波留
■牧内唱子さん(78)鹿児島県阿久根市波留

 海軍の兵隊だった阿久根市出身の父川畑庄藏(享年32)は1944(昭和19)年7月、硫黄島(東京都小笠原村)に渡った。前年11月に生まれたばかりの私に当時の記憶はない。今思うと、両親にとって私が生まれた時期が一番幸せだったのだろう。

 父は7人きょうだいの長男。20歳で長崎県の佐世保海兵団に入団した。兵隊になって実家にお金を送り、少しでも家族に役立ちたかったようだ。43年1月に同郷の母と結婚した。

 父が硫黄島に出兵した頃、母は当時住んでいた佐世保を離れ、私を連れて現阿久根市大川にある父の実家に身を寄せた。父が硫黄島から祖父に送ったはがきが今も自宅に残っている。

 「元気一杯戦務に励んでおりますからご安心の程お願い申し上げます」などと近況を報告。「唱子(私)たちもご迷惑を掛けていることでしょうが、お願い申し上げます」と私と母を気遣う内容がつづられていた。

 45年2月19日。米軍が硫黄島に上陸した。激戦が繰り広げられ、日本軍は壊滅した。「昭和二十年三月十七日(時刻不明)硫黄島方面ニ於テ戦死」-。父の「死亡報告」が送られてきたのは、終戦から1年半後の47年2月だった。

 父が亡くなったという事実を突き付けられ、母はショックで悲嘆していた。2人の結婚期間はほんのわずかだった。

 その後「英霊伝達通知」が届いた。遺骨などが納められたとみられる木箱は市内の寺に置かれていた。親戚一同で受け取りに行った場面ははっきりと覚えている。

 母は白装束に身を包んでいた。木箱を祖父宅に持ち帰り、全員が縁側に集まり、開けられた。ところが中は空っぽ。遺骨は入っておらず、子どもながらに驚いた。

 その後、母は親戚に強く薦められ、父の弟と再婚した。70年代になると、元日本兵の横井庄一さんらが戦地から奇跡的に生還した。「お父さんが生きて帰ってきたらどうしよう」。慌てた母に「私がお父さんと暮らしてあげる」と伝えたのを覚えている。

 98年に他の遺族らと硫黄島に初めて足を踏み入れた。船に乗って島を離れる時、「お父さん」と叫ぶ声が至る所から聞こえた。涙があふれた。

 私にも娘が生まれ、孫の真愛(26)は遺骨が見つかるきっかけになればと、厚生労働省が遺族のDNA登録を募っていることを教えてくれた。おかげで私と娘のDNAをデータベースに登録できた。真愛は硫黄島を見てみたいという。父に関心を持ってくれるのがうれしい。いつの日か私の代わりに遺骨を見つけてくれるかもしれない。

 生き残った人の人生まで変えてしまうのが戦争だ。硫黄島で戦死した父、その後育ててくれた新しい父。今の生活を送れるのは母に加えて2人の父のおかげ。感謝している。

(2022年9月6日付紙面掲載)

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