「パラオと日本友好の館」と名付けたパラオの集会場を模した建物=小林市南西方
宮崎県小林市の生駒高原近くの県道沿いに、太平洋に浮かぶ島国パラオの集会場「バイ」を模した建物がある。持ち主は太平洋戦争の激戦地だったパラオから戦後、同市環野(たまきの)地区に入植した久保松雄さん(87)。パラオの文化や戦時中の様子などが分かるパネル、写真が約120点が並び、久保さんは「パラオの美しさとともに、戦争の悲惨さを後世に伝えられれば」と話す。
パラオは1920年から終戦まで日本の委任統治下にあった。久保さんはフィリピンで生まれ、母親の古里の福島県に戻った後、40年にパラオに移住した。当時5歳で「海が青くきれいで魚もよく釣れる。平和で穏やかな島だった」と振り返る。
ただ戦争が始まると生活は一変した。終戦までの2年半は米軍の空襲から逃れる日々。パイロットの顔が見えるほど近くから機銃掃射を受け、足を撃たれた友達は亡くなった。終戦翌年に日本に戻り、約100人の入植者と荒野だった環野地区を開墾したという。
食糧難など入植後も苦労したがパラオのことを忘れられず、約20年前に外壁や内装にパラオ伝統の彫刻を施したバイを建設した。現地に足を運んでは、戦争遺構や風景を撮影し民芸品を調達。大使館に写真を提供してもらうなどして、パラオ関連資料を集めてきた。
バイは2020年から一時、資料館として開放したが、現在は自身の体調や新型コロナウイルスの影響で閉鎖中。久保さんは「こんな美しいパラオにも戦争が悲しみをもたらした。資料館の今後は未定だが、戦争の悲惨さと今ある平和の尊さを考えてほしい」と話した。