亡き夫が出征中に使っていた道具を前に空襲体験を語る桑原露子さん=さつま町求名
■桑原 露子さん(88)鹿児島県さつま町求名
1945(昭和20)年7月27日午後1時ごろ、鹿児島県さつま町求名で敵機襲来を告げる鐘が鳴り響いた。当時は求名国民学校に通う5年生。この時期はたびたび警報が鳴り近くの防空壕(ごう)に避難する日々で、慣れもあって「またか」と軽い気持ちだった。
ただこの日は違った。ごう音と共に米軍機が学校近くまで飛来。担任やクラスメートと共に校舎を出て、学校裏の杉山に急ぎ避難した。
同級生らは物陰に身を潜めて担任を囲み、口々に「お母さん」と泣いていた。怖かったのだろう。私は母親を早くに亡くし祖父母に育てられたせいか、気丈なたちだった。怖さは特になく、木々の隙間から眼下の学校を見ていた。
米軍機は低空飛行で校舎に近づいた。「バリバリバリ」と激しい音をたてて機銃掃射し、しばらくして去った。校舎の窓ガラスはほとんど割れ、音楽室のピアノにも銃弾が突き刺さっていた。
当日は求名駅も空襲に遭い爆弾が落とされ、駅舎が焼失。近くの畑にも巨大な穴が開き、それを見て破壊力に驚いた。
求名地区の空襲はこの1回だけで犠牲者はなかったが、どこか遠い存在だった戦争を初めて現実のものと受けとめた瞬間だった。祖母らが取り組んでいた竹やりで人形を突く訓練について、子ども心に「とてもかないやしない」と感じるようになった。
学校では地図を書くことが好きだったが、地理の授業で習うのは日本が占領下においた東南アジアの地域ばかり。振り返ると、戦線拡大の正当性を印象づけるための軍事教育の一端だったようにも思う。
戦況の悪化で4年生の頃は、授業は午前中だけで午後からは縄編みばかりさせられた。家に帰っても縄編みをして学校に提出していたが、何に使われたのかは分からない。友人が冗談交じりに「ルーズベルト(当時の米大統領)の首を絞めるのよ」と笑っていたのをよく覚えている。
学校行事としてたびたび、戦勝祝いがあり、日の丸の小旗を持って地域を練り歩き「日本万歳」と叫んだ。実際に勝っていたのかは疑わしい。若い出征兵士の見送りで求名駅にもよく行った。戦争が長引き年配の出征も増え、遺骨出迎えも多く見かけるようになっていった。
田んぼや畑があったため、食にはほとんど困らず、市街地から食料調達に来る人が多かった。苗が生えてしぼんでしまった種芋さえ、有り難そうに持って帰る人も。普段廃棄していたので物は試しと口にしたが、繊維ばかりで食べられなかった。ただ当時は何でも食する時代。麦の表皮「ふすま」も重宝された。
終戦を知ったのは8月15日夜。祖母が「負けて良かった」とつぶやいたのが、忘れられない。理由を聞くと、母を含め娘が3人だったため、「お国のために役立つ男子がおらず、ずっと肩身が狭かった」と話した。そのようなことまで気を遣わないといけない「ひどい時代」だった。得たものと言えば唯一、我慢強くなったことぐらいだ。
現在は、平和で食も豊かで素晴らしい時代だと感じている。東アジア情勢が緊迫化し、日本の防衛費が拡大の一途をたどっている状況には胸を痛め、もっと外交に力を入れてほしいと願う。戦時中は幼く大した経験もしていないが、当時の空気を知る一人として、二度と戦争はしてはならないと訴えたい。
(2023年8月13日付紙面掲載)