気象情報は軍の機密で暗号化されていた。大阪気象台で働く私たちさえ、大型台風の発生もうわさで知る程度だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

2023/06/25 17:29
戦時中を振り返る小川辰雄さん=鹿児島市大明丘2丁目
戦時中を振り返る小川辰雄さん=鹿児島市大明丘2丁目
■小川辰雄さん(94)鹿児島市大明丘2丁目

 1928(昭和3)年、7人きょうだいの長男として上甑島の里村(現薩摩川内市里町)で生まれた。父は物心ついたころから関西に出稼ぎし、祖父母や母らと貧しい生活を送った。

 飼っていたニワトリの卵は全て売り、家で食べることはなかった。ただ、学校行事の遠泳前だけは特別で、「元気が出るように」と麦ご飯にかけてもらえてうれしかった。

 里尋常小学校を卒業する前の41年、京都府舞鶴市の海軍工廠(こうしょう)で働く父と暮らすことになり、島を離れた。同年12月に太平洋戦争が勃発。旧軍港市の舞鶴は、各地から集まった軍人や徴用工らであふれかえった。

 進学した舞鶴の国民学校高等科には朝鮮出身のクラスメートがいた。印象に残っているのは、先生が日本名になったその生徒を「本当の日本人になりました」と紹介し、拍手で祝ったことだ。今思えば、あれは強制的な創氏改名だった。とはいえ、甑島の方言を話す私を含め、同級生間にいじめや差別はなかった。

 学校では「戦争は世界平和のため」と軍事一色の教育を受けた。自然と軍隊を志し、海軍飛行予科練習生を受験した。入隊すれば特攻の要員となる。母は「お国のために働けるようになった」と喜んでくれた。

 しかし、小柄だったため身体検査で不合格になった。悔しくて泣いた。当時は友人の戦死を聞いても「国のために死ぬのは名誉なこと」と受け止めていた。

 43年11月、大阪の逓信講習所を卒業し、大阪管区気象台の通信士として採用された。各地の観測所から送られてくる気象電報を、軍施設に電信や無線で送信するのが主な業務だった。

 当時は言論統制が厳しく、各地で撤退が続いていることや空襲の惨状など、正確な戦況は報道されなかった。気象情報も例外ではなく、軍の機密として数字に暗号化され、極秘の乱数表がなければ解読できなかった。大型台風が発生しても、一般人はもちろん、気象台の職員さえうわさで知る程度だった。

 45年2月の初め、一睡もできない夜を過ごした。就寝中に「ドカーン」という爆撃音とともに家が揺れた。米爆撃機B29の襲来だった。翌朝、自宅から二、三百メートル先の道路に約4メートルのすり鉢のような爆弾の跡が開いていた。怖くなり、休暇を取って甑島に帰った。あれほど恐ろしい思いをしたのは、後にも先にもあの夜だけだ。

 帰郷後しばらくして、気象台職員も戦地に駆り出されるようになった。「スグカエレ」と電報が届いたが、家族と離れがたく、出発を延ばしているうちに大阪大空襲の混乱で帰れなくなった。後に気象台は退職した。

 敗戦は8月15日の夕方、人づてに聞いた。日本が勝つと信じていた島民は「負けるものか。そんなデマを飛ばすな」と怒りをあらわにした。終戦後は戦時中より厳しい食料不足に見舞われ、サツマイモの茎や野草で食いつないだ。

 ロシアによるウクライナ侵攻など、近年の世界情勢は昭和初期に返っていくようで不安を感じる。軍事での対立ではなく、対話による協調で自由と平和が続くことを祈っている。

(2023年6月25日付紙面掲載)

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