14歳で鹿児島市の「田辺航空工業」に動員。そこは既に空襲被害を受けていた。工場の大人はいつも「日本は勝つ」。警報のたび防空壕に避難していたが〈証言 語り継ぐ戦争〉

2021/12/26 11:15
軍需工場での生活や友人との思い出をたどる原田榮さん
軍需工場での生活や友人との思い出をたどる原田榮さん
■原田榮さん(91)志布志市有明町

 1945(昭和20)年1月、地元の国民学校高等科2年だった14歳のとき、鹿児島市谷山にあった航空機部品の軍需工場「田辺航空工業」に動員された。学校からの選抜だった。

 当時は地元にも兵隊がおり、上官の靴磨きをさせられている姿を見ていた。「早く兵隊になり、えらくならないと大変だ」との思いがあった。

 既に両親を病気で亡くしていたので、工場に行く日は、12歳離れた親代わりの姉がついて来てくれた。大崎町の三文字駅から汽車で鹿児島駅まで乗った。その後、電車で谷山まで行ったが、空襲の被害を受けており、途中は歩きだった。

 工場に無事到着。1泊して翌朝別れた姉は「元気にしとけよ」と励ましてくれた。工場には同年代の子どもがたくさんおり、寂しくはなかった。他の子の母親は「みんな仲良くしてね」とあめ玉を配って帰った。

 養成工だったので工場で仕事らしい仕事はなかった。敷地内にあった教室で勉強に明け暮れた。兵隊か工場の人だったか分からないが、「日本は戦争に勝つ」といいことばかり教えられた。空襲警報が鳴ることも多く、工場の外の防空壕(ごう)にたびたび避難していた。

 友人もできた。「カミノソノミツオ」という名で谷山出身だった。工員になると通いになる距離だと思うが、見習い期間だったので自分と同じく工場敷地内の宿舎で生活した。ベッドも上と下で一緒。「お前はどこから来たとよ」と聞かれ、「おいは西志布志村よ」と話をして仲良くなり、教室でも隣り合って学んだ。

 工場で何をしたいかという話になったとき、彼は「旋盤工がしたい」と言っていた。ある夜、一緒に宿舎を抜け出し、稼働していた工場を見に行った。工員に見つかり、「ここはお前らが来るとこじゃなか。はよ帰って寝らんか」と怒られた。

 空襲が激しくなり、自習が多くなった。あるとき彼から「おいげえ(俺の家)に行っか」と誘われ、防空壕を抜け、彼の実家に行った。すると母親が驚いた様子で「はよ戻らんと怒られるよ」と言われた。ふかしたのか、焼いたのかははっきり覚えていないが、小さなサツマイモをもらって食べて工場に戻った。

 終戦になり、約7カ月の学徒動員生活は終わった。工場の人から「解散だ」と言われた。終戦の混乱で工場もごった返し、彼と別れのあいさつもできなかった。谷山から竜ケ水駅まで歩き、汽車に乗った。

 隼人、西都城と乗り換えて志布志駅に到着したのは翌日だった。そこから歩いて実家に帰った。家に着くと、姉がやせた体に驚きながら「生きちょったとか」と大喜びしてくれた。

 彼とお別れができなかったことが心残りだった。元気なら消息が知りたいと、5、6年前にも娘に谷山周辺を車で案内してもらい、手掛かりを捜した。しかし、当時と様子は一変していて分からなかった。

 振り返ると、上官はいい物を食べて、若い兵隊に「行け」と命令するのが戦争ではなかったか。だまされて行かされたように感じる。戦争は勝っても負けても絶対によくない。彼と会えたら、そんな話をしたい。

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