1995年の第85大隊戦友会で、靖国神社を訪れた池田清治さん
■池田 清治さん(95)鹿児島市紫原2丁目
1946(昭和21)年5月、北朝鮮東岸の古茂山(コムサン)収容所にいた捕虜は、シベリアなどに送られた。私が所属していた野戦高射砲第85大隊を含む約500人の行き先は、ウクライナ共和国のアルチェモフスクだった。
古茂山南部の興南港を経て、船でソ連東部のポシエット港へ。船の煙突には「名も知らぬ 港に到着 日本に帰れず」と、くぎで刻んだようなひっかき傷があった。シベリア鉄道の貨車に詰め込まれ、鉄路の旅が1カ月続いた。
途中停車したバイカル湖で、暑さに耐えかねた私たちは湖で水浴びをした。するとソ連兵が「早く上がれ」と威嚇射撃した。あの音は今も忘れない。
捕虜になって以来、必死にロシア語を学んだ。紙も鉛筆もないから、身ぶり手ぶりで会話し、簡単な単語を少しずつ覚えた。アルチェモフスクでは、独ソ戦で壊れた民家の復旧や基礎石の切り出し、バレイショ掘りなどの農耕作業に従事した。
8カ月後、黒海北部の大都市ドニエプロペトロフスクの収容所へ移った。街の大きな製鉄工場は、戦禍で深刻なダメージを負っていた。抑留者はこの復旧を課せられた。ドイツ人捕虜約1千人も同じ仕事に当たった。
作業はれんが工場やセメント工場、鉄道引き込み線造りなど多岐にわたった。3交代勤務で、収容所にはわらぶとんの寝台があった。食事はおかゆや黒パン。古茂山での抑留生活よりましだった。
製鉄工場は、ウクライナ人の男女も働いていた。独ソ戦で戦ったドイツ兵捕虜には厳しかったが、日本人には好意的に接してくれた。
私は、日常会話の片言程度ならロシア語が話せるようになっていた。工場の作業監督に代わって抑留者に仕事内容を伝えることもあった。ある日、作業前に私たちが集まっていると、監督が「お前たちはなぜさっさと仕事を始めないんだ」とどなりつけてきた。「効率的に作業を進めるための打ち合わせだ」と説明すると納得してくれた。
収容所とは異なり、労務中は時折外出も許された。仲間の頼みで街に出て白パンを買い求めることもあった。捨てられていた新聞を見つけると「これは何という意味か」と通りの人々に聞きまくった。ウクライナ人は親切に教えてくれた。
日本への帰国が決まる前、誠実な人柄で尊敬されていた工場長から部屋に呼ばれた。「通訳くん、サムライはなぜ腹切りをするのか」。突然の質問だった。
日本人の働きぶりなどから、武士道精神を知りたかったのだろう。だが私にそれを伝える語学力はなかった。「サムライは今はいない。だからハラキリはない」と言うのが精いっぱい。工場長の無念そうな顔が今も忘れられない。
ドニエプロペトロフスクに来て1年半ほどたった48年8月、「溶鉱炉に火が入ったら帰れるぞ」と言われていた通り、日本帰還が決まった。ナホトカ、舞鶴港を経て9月下旬、鹿児島に帰り着いた。
悲惨な戦争を許すことはできない。対日戦争に参加したソ連当局やソ連兵に恨みや憎しみはある。だがウクライナ人には一切ない。
※2020年9月4日付掲載