遺品整理で見つかった「歓迎セレモニー」の写真。着物姿の右端が中原敦子さん(武田久美子さん提供)
太平洋戦争の終結後、連合国軍が進駐先として西日本で真っ先に選んだ鹿屋市。1945(昭和20)年9月4日、鹿児島湾の高須沖に米艦船約20隻が集結し、同市高須町北部の金浜海岸に乗り上げた揚陸艦から米兵が上陸したと伝わる。
海岸であった「歓迎セレモニー」に着物姿で臨んだうちの1人は中原敦子さん=旧姓若松=。2020年に92歳で亡くなり、三女の武田久美子さん(66)=同市今坂町=ら遺族が遺品整理をした際、当日撮ったと思われる写真が見つかった。武田さんは「埋もれていた歴史が偶然見つかった。母がこの場にいたと思うと感慨深い」と話す。
中原さんは、旧鹿屋高等女学校(現鹿屋高校)を経て、海軍航空隊鹿屋基地司令部の秘書課で働いたという。01年に地元有志が進駐軍上陸地の碑を建てた際、「私は米兵に花束を渡したんだ」と初めて武田さんに打ち明けた。
中原さんは当時17歳。進駐軍を出迎えるよう市から指示を受け、姉から借りた着物を着て海岸で米兵に花束を渡した。新聞各社も取材に来ていた。その後、通訳で同行していた故二階堂進氏(後に衆院議員)らも一緒にジープ型車両数台で移動し、市街地の屋敷で米兵にお茶を出した記憶を語ったという。
上陸前、進駐軍を警戒した多くの市民が山間部などに避難したと伝わる。同市本町の自宅にとどまった理由を「アメリカ人は野蛮なことはしないから大丈夫と父親から教わった」と話したという。
中原さんは鹿屋基地を飛び立った特攻隊員との思い出も繰り返し語っていた。自宅は宿舎として隊員を受け入れており、若い隊員が次々と命を落としたことに胸を痛めていた。明日飛び立つ隊員に「近くの空を旋回するから見ていて」と言われ、見送ったこともあった。「慶応や早稲田など有名大学に通う若者が多かった。とにかく悲惨だった」と振り返っていた。
最近、改めて母の生きた時代に思いを寄せるようになったという武田さん。「世界情勢が緊迫するニュースを見るたびに、戦争にさまざまな形で関わった家族を思い出す。平和な時代が続くことを強く願う」と話した。